中林忠良
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なかばやし ただよし中林忠良
生誕 (1937-09-17)
1937年9月17日(83歳)
東京都品川区
国籍 日本
職業版画家東京芸術大学名誉教授[1]
著名な実績1973年 日動版画グランプリ展(日動画廊) グランプリ1984年 第7回東ドイツ国際版画トリエンナーレ・インターグラフィック賞 など[2]

中林 忠良(なかばやし ただよし、1937年(昭和12年)9月17日 - )は、日本版画界を代表する版画家の1人。東京芸術大学名誉教授紫綬褒章瑞宝中綬章受章[3]。日本における銅版画の第一人者[4]

銅版の腐蝕と自分を含めた全てのものの腐蝕を重ね合わせ、「すべて腐ちないものはない」という思想のもとに[5]、白と黒を基調とする銅版腐蝕版画(エッチング)による製作を続けている[3]目次

1 略歴

2 作品と思想

3 エピソード

4 技法

5 パブリックコレクション

5.1 国内

5.2 海外

5.2.1 アメリカ

5.2.2 英国

5.2.3 フランス

5.2.4 ベルギー

5.2.5 ブルガリア

5.2.6 ポーランド

5.2.7 オーストラリア

5.2.8 カナダ

5.2.9 トルコ

5.2.10 ロシア

5.2.11 イスラエル

5.2.12 中国

5.2.13 韓国

5.2.14 台湾



6 受賞歴

7 書籍

7.1 オリジナル版画集


8 テレビ出演

9 脚注

9.1 出典


10 外部リンク

略歴

1937年 東京品川区大井山中町に産まれる。1941年江東区に、1943年品川区に、1944年目黒区に転居。目黒区立中目黒小学校入学直後に、新潟県蒲原郡加茂町(現加茂市に戦時児童疎開。4年間を過ごす。この少年時代の疎開生活は、のちの作品に影響をあたえた。

1959年 東京芸術大学 美術学部絵画科油絵専攻に入学。1961年 3年次の版画集中講義で、駒井哲郎から初めて銅版画を学ぶ[5]1963年 東京芸術大学 卒業[6] (学部同級生 -版画関係- に青出光佑、秋元幸茂、斎藤智、野田哲也、星野美智子、本多栄子、本山敬子、柳澤紀子がいる[7])。 東京芸術大学大学院 美術研究科 版画専攻に入学、駒井哲郎に師事する。

1965年 東京芸術大学大学院を修了し、同大副手に採用される。1966年から非常勤講師。「アトリエC?126」を今井治男、小作青史、野田哲也、吉田東、清塚紀子らと結成。のちに田村文雄、原健らが参加した[6]1969年 東京芸術大学助手。1974年講師、1978年に助教授に昇任、1989年に教授になる。この間、1973年 第四回版画グランプリ展でグランプリ受賞[2]パリなど、内外で多数受賞[2]

1975年には文部省派遣在外研究員として国立美術学校、ハンブルク造形芸術大学(英語版)[8]で研修( - 1976年)[2]、1年間をすごす。


1986年長野県茅野市蓼科に「山のアトリエ」を建て、創作活動をする拠点の一つになる[9]

2003年 紫綬褒章受章[10]2005年教授を退任。武蔵野美術大学客員教授( - 2009)、大阪芸術大学教授に招聘される。

2015年時点 東京芸術大学名誉教授[1]、大阪芸術大学客員教授[11]、京都造形芸術大学客員教授[12]、2003年 紫綬褒章[7]2014年瑞宝中綬章受章。日本版画協会理事、日本美術家連盟常任理事。
作品と思想

「現代日本の銅版画に新たな一面を開いた」といわれる[13]中林は、その出発点を雪深い新潟で過ごした子供時代に置く。その疎開体験を「自然の光と影しかない風景となじめない学校や暮らしの中で雪の世界にだけ親しいものを感じていた」と回顧する[14][15]。「7歳から14歳までの4年間、自然を友として過ごした雪国での疎開の体験が、僕の表現の根っことその画質を形作った」「人より、自然の方に親和感をもつようになった」と語っている[16]

銅版画との出会いは、芸大3年の1961年秋。駒井哲郎の集中講義に出席し、駒井の作品、実際に刷る姿に感動。初めて自分も作品を作る。また特異な画家ヴォルスの作品に出会ったこともきっかけとなり、「油絵の教室を抜け出して版画を制作していた」という[13]。当時、中林は「油絵の具のヌルヌルした感じが身にそわなくて、描けば描くほど作品が自分から遠ざかるようで、そんなときに銅版と出会って、もうコレだ!と」と駒井の授業との出会いの衝撃を語っている[4]

大学の助手として、大学紛争の時期を体験。「群れと個」という問題意識に立ち「孤独な祭り」(1970年)でその終結を作品化し、その後「白い部屋」(1971年)「二律背反される風景」(1972年)「囚われる部屋」(1973年)「囚われる日々」(1974年)にも受け継がれて行く。「自分が社会や仲間、自分にむけてメッセージを投げかけて」『閉塞的な情況を風景として表していた」と振り返る。

これらの思いは、オリジナル版画集「剥離される日々」(1973年 詩・岡田隆彦)、「大腐爛頌」(1975年 詩・金子光晴)、「覇王の七日」(1977年 小説・中上健次)の制作にもつながっていった。


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