中林仁一郎
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Microsoftコードページ932はしご高))が含まれています(詳細)。

なかばやし にいちろう
中林 仁一郎
生誕1891年明治24年)4月13日[1]
京都府京都市
死没 (1960-03-24) 1960年3月24日(68歳没)
京都府京都市上京区
京都府立医科大学附属病院
死因心臓衰弱症
墓地くろ谷(金戒光明寺
住居京都府京都市東山区今熊野北日吉町52番地
国籍 日本
職業京都物産館・丸物社長
丸栄社長
著名な実績京都物産館創業(近鉄百貨店の母体となった)
配偶者中林きく子
子供中林仁良(長男、丸物社長・近鉄百貨店相談役)
中林雅夫(次男、丸栄社長・会長)
中林孝直(三男、東京丸物<現在のパルコ>社長)
親中林捨治郎(父)
補足
旧・福岡県八幡市出身との説もある。
テンプレートを表示

中林 仁一郎(なかばやし にいちろう、1891年明治24年〉4月13日[1] - 1960年昭和35年〉3月24日)は、日本実業家近鉄百貨店パルコの前身となった百貨店丸物」の創業者である。
生涯
京都物産館創業創業時の京都物産館

1891年明治24年)4月13日京都府京都市で「中林呉服店」を営む中林捨治郎の長男として生まれる[注 1]。中林家は藤原氏の流れを汲む名家であり、現在の京都駅の土地の大半を所有していたとも伝えられる[2]

中林呉服店の一員として京都駅前にあった「京都名品館」に出品したところ売り上げが好調だったので、弟・谷 政二郎と協力して1920年大正9年)1月1日には東本願寺の土地を借りた土産物店「京都物産館」として単独で京都駅前に進出し、法人も合名会社化した[注 2]1926年(大正15年)10月1日には京都物産館新館として6階建の建物を完成させ、百貨店へ発展する[2]1929年昭和4年)には「京都物産館」を日本百貨店協会の前身に加盟させ、西陣分店を開店した。

既に京都発祥の百貨店として京阪神の3大都市に進出していた「大丸」や東京でも営業していた「島屋」などがあったところ、丸物は新興百貨店とされており、拡大が急務であった。そんな中、改装工事が終わらない中でも社長命令で仕入れなどを開始し、西陣分店の開店当日に間に合わせるなど、リーダーシップを発揮していた[3]
東海地方進出

1930年(昭和5年)6月には岐阜市長だった松尾国松の誘致を受けて、岐阜市柳ヶ瀬岐阜支店を開設して、東海地方に進出した。京都物産館は○の中に物産館の「物」を入れたマークを「まるぶつ」と呼んで親しまれたので、1931年(昭和6年)には商号も丸物(まるぶつ)に変更している。

この年には豊橋市広小路にあった「豊橋物産館」を引き継いで丸物豊橋支店を開業し、東海地方での店舗展開を積極的に行うこととなった。その一環として名古屋進出を検討するが、三越の名古屋進出[注 3]に失敗するなど排他的な土地であった。しかし、仁一郎は京都の丸物本店の土地が東本願寺からの借地ということで大谷氏と親しく、この進出計画について大谷家の大谷瑩昭氏の賛同を得た。また、名古屋五摂家松坂屋当主を退くも名古屋の経済界に影響力を持つ伊藤次郎左衛門氏にも協力を要請。そして、大谷、中林、伊藤の三者の意見を一致して、丸物の中京進出を確定させた[4]1939年(昭和14年)5月20日に百貨店を栄に開くが、「三星(みつぼし)」を名乗り、「丸物」の名称は使用していない。しかも、4年後には戦時中の統合令で名古屋の老舗呉服店をルーツとする「十一屋」と対等合併したが、新たに誕生した丸栄の初代社長には中林自身が就くなど一定の影響力を維持した。
私生活・財界活動など

村野藤吾の設計で1935年(昭和10年)に開業したそごう大阪店に感動し[5][注 4]1941年には京都市東山区今熊野に村野の設計で自宅・比燕荘(ひえんそう)を建てた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:46 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef