第一次世界大戦の中東戦域
第一次世界大戦中
1915年4月 ガリポリ戦役
時1914年10月29日 ? 1918年10月30日
(4年1日間)
場所中東(スーダン、エジプト、シナイ半島、パレスチナ、シリア、ヨルダン、ペルシャ、ガリポリ半島、アラビア半島、ペルシア湾、メソポタミア)、コーカサス、中央アジア
結果
連合国の勝利
ムドロス休戦協定
オスマン帝国の崩壊
中東での新たな国家の基盤が生まれる
ブレスト=リトフスク条約、バトゥム条約
イギリス帝国
オーストラリア
カナダ
イギリス領インド帝国
ニューファンドランド
ニュージーランド
南アフリカ連邦
イギリス
ロシア帝国
フランス
フランス・アルメニア軍団(英語版)
フランス領西アフリカ
フランス領赤道アフリカ
アルメニア
アゼルバイジャン
イタリア王国
ヒジャーズ王国
アシール王国(英語版)
ナジュド及びハッサ王国
クウェート[1][2][3]
オスマン帝国
ドイツ帝国
オーストリア=ハンガリー帝国[4][5]
ジャバル・シャンマル王国
戦力
: 2,550,000[6]
: 1,000,000[7]
: 数十万[7]
: 数十万[7]
: 70,000[6]
合計: 3,620,000+
: 2,800,000 (徴兵した兵士含めて),[8] (最大で800,000)[8][9]
: 2,100,000 (1916年8月), 20,000 (1918年)[8]
:9,000 (1918年)[10]ムドロス休戦協定の時点で全オスマン軍の兵数は323,000。[11]全戦線での兵士数は2,002,000だった。[11]
被害者数
死傷・捕虜・行方不明 1,000,000 ? 1,500,000 [要出典]死傷・捕虜・行方不明 1,500,000(243,598の戦死者含む)[12]
合計 民間人を含むと5,000,000。[13] オスマン帝国の具体的な死傷者の内訳は、第一次世界大戦のオスマン帝国の死傷者(英語版)を参照。
中東戦域(ちゅうとうせんいき)または中東戦線(ちゅうとうせんせん)とは、第一次世界大戦中、ガリポリ、コーカサス(英語版)、シナイ・パレスチナ(英語版)、ペルシア(英語版)、メソポタミア(英語版)など、中東地域で展開された連合国と中央同盟国の戦いの行われた戦線の総称。 オスマン帝国は大戦勃発当初においては親独的中立にあった。しかし、オスマン債務管理局で生まれたドイツ帝国との経済関係がさらに密接となり、ついに大戦参加を決心した。オスマン軍は1914年10月29日クリミア半島を砲撃してロシア帝国との国交を断絶。イギリス、フランスはオスマンに対し抗議したが無視された。そのため英仏もまたオスマンに対し敵対行動を執るに至った。
背景
1914年1914年 戦地へと行軍する訓練を終えたばかりのオスマン軍新兵。