この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "西アジア・中東史"
西アジア・中東史(にしアジア・ちゅうとうし)では、農耕と牧畜に基づく定住社会をもたらした新石器革命に始まり、メソポタミア文明などの古代文明の展開、中世におけるイスラームの誕生と世界的拡大を経てに現代にいたるまでの西アジア・中近東の歴史を述べる。 西アジアの古代史で主役を演じてきたのはメソポタミア、レバント、アナトリア半島、イラン高原の各地域であり、ユーラシア大陸西部での農耕牧畜の基盤となった麦類(コムギ、オオムギ、ライムギ、エンバク)やそれに随伴する豆類(エンドウ、ソラマメ、レンズマメ、ヒヨコマメ)、主要な家畜(ヤギ、ヒツジ、ウシ、ブタ)の栽培化・家畜化が行われたのはこれらの地域であった。新石器時代以降定住と農耕・牧畜の普及とともに都市的共同体が広く展開し、特に世界四大文明の一つに数えられるメソポタミア文明においてはシュメール人やアッカド人によるウル、ウルク、キシュ、バビロンなどの都市国家が発展した。大量生産されていた穀物以外の産品に乏しいメソポタミアの低地地帯に金属などの鉱物資源を供給していたイラン高原やアナトリア半島の高地でも都市文明が展開し、やがてアナトリア半島ではヒッタイトが、メソポタミアの低地とイラン高原を媒介する位置でエラムが台頭することとなった。レバノンスギを産したレバントではエブラやウガリットといった都市国家が繁栄したが、政治的には北アフリカのエジプトの強い影響下に置かれた。 都市国家群とそれに付随する農村地帯の間隙では、ヒツジやヤギの群を都市的共同体の住人から預かって自前の家畜群と共にステップ地帯で放牧するセム系のアムル人などの遊牧民が牧畜業者や交易商人、さらには軍人として活躍し、彼らは都市社会の内部にも浸透して複合的な社会を形成した。また、遊牧民は酸乳やチーズといった乳製品加工の技術を発展させて元本たる家畜に手を付けずに家畜に依存して食生活を成立させる生活様式を生み出した。複数の都市的共同体から同時に家畜群の寄託を受けて定住民の目の届かぬシリア砂漠などの遠方の荒れ野で放牧を行う遊牧民との利害交渉は契約の概念を生み出した。メソポタミアの都市国家群稠密地域は最初は下流部のシュメールと上流部のアッカドの名で呼ばれていたが、アムル人の軍人や王族の都市社会への浸透とともに王権の所在地であるバビロンに由来するバビロニアの名で呼ばれるようになり、さらに上流域で発展したアッシリアと対置されるようになる。 こうした都市国家群は楔形文字と粘土板文書による記録制度を整え、国家祭祀の場としてジッグラトを建造するなど、新石器時代と青銅器時代を通じて卓越して洗練された文明を誇った。やがて前1200年のカタストロフと呼ばれる混乱が西アジアを覆い、この混乱が鎮まった後に鉄器時代の社会が展開する。この時代になると都市国家や単にそれらの連合体としての枠組みを超えた広域を安定統治する世界帝国が登場する。このタイプの帝国は新アッシリア帝国に始まり、新バビロニアに受け継がれ、さらに前10世紀に中央アジアや北アジアで成立した中央ユーラシア型の騎馬遊牧民の国政的軍事制度的要素を取り込んだアケメネス朝ペルシャに至って国家体制上の一つの完成形をみた。 この西アジアの鉄器時代社会で広域の交易商人として活躍したのがレバントを本拠地にヒトコブラクダの隊商を組織したアラム人で、アラム語が古典的なアッカド語と並んで国際共通語としての地位を獲得した。西アジアの諸国家では粘土板に楔形文字でアッカド語を記す書記とともに羊皮紙にアラム文字でアラム語を記す書記が台頭した。アラム文字は西アジアから中央アジアにまで広まり、後世西アジア、中央アジア、南アジアで採用されることになる文字の多くがアラム文字に由来する文字体系となる。 陸の交易を支配したアラム人に対して地中海の海上交易を支配したのがレバントのカナン地方の沿岸部にシドン、ティルス、ビブロスなどの都市国家群を展開したフェニキア人であった。フェニキア人は本拠地の沿岸で得られる貝の分泌物を用いた貝紫染色の技術やレバント特産のレバノンスギの高級木材の交易を独占し、また地中海全域で高い価値を持つ奢侈品、威信財を手広く交易して巨富を築いた。フェニキア人の用いた文字体系は後発で地中海貿易に参入したギリシア人に採用され、さらにイタリア半島のエトルリア人を経てローマ人に採用されることで後のヨーロッパ諸国のギリシア文字系やラテン文字系の諸々の文字体系の祖となっていく。 もうひとつ、レバントの鉄器時代の開幕と共に台頭した重要な勢力に一神教のヤハウェ信仰を掲げて結集したヘブライ人の諸部族連合体がある。彼らは前1200年のカタストロフの時代に西アジアを席巻した「海の民」と称せられる武装難民の一派としてミケーネ文明の故地エーゲ海を出てレバントに定着したペリシテ人の都市国家群と地域の覇権を競いつつ、ダビデ王家のもとに結集してイスラエル王国を築いたが、やがてダビデ王家の権威のもとにユダ族とベニヤミン族主体で結集した南のユダ王国とダビデ王家を排除した北のイスラエル王国に分裂した。イスラエル王国はアッシリアの軍事制圧を受けて遺民はサマリア人の、ユダ王国は新バビロニアの軍事制圧を受けて遺民はユダヤ人の原型となっていき、後者の中からユダヤ教が成立して後世のキリスト教やイスラム教といった世界宗教となる一神教の原型となる。 メソポタミア、レバント、アナトリア半島、イラン高原と古代文明の栄えた西アジア諸地域を統合したアケメネス朝は、長い繁栄を謳歌した後に辺境から勃興してギリシア世界を軍事的に統合したマケドニアのアレクサンドロス3世の軍勢に滅ぼされた。アレクサンドロスの帝国はほぼアケメネス朝の版図と制度を踏襲したものであったが、彼が早世すると後継者(ディアドコイ)の紛争を経て分割され、その西アジア部分を継承したのがセレウコス朝であった。
概要