中村電気軌道
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中村電気軌道
明治橋終点
種類株式会社
本社所在地 日本
愛知県名古屋市西区日比津町字道下304[1]
設立1926年(大正15年)1月27日[1]
業種鉄軌道業
事業内容旅客鉄道事業、不動産、バス事業[1]
代表者社長 藍川清成[1]
資本金480,000円(払込額)[1]
特記事項:上記データは1935年(昭和10年)4月1日現在[1]
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路線概略図 
凡例

市買収(1936年5月)直前の路線


鉄道省東海道本線
名古屋駅


0.0明治橋電停


0.7笈瀬川電停


1.2藤の棚電停


1.5西米野電停


1.9大門前電停


2.1本社前電停


2.4楠橋電停


2.6上中電停


2.8稲葉地電停


3.3公園前電停

中村電気軌道株式会社(中村電氣軌道株式會社、なかむらでんききどう)は、かつて愛知県名古屋市において路面電車バスを運営していた企業株式会社)である。1936年昭和11年)に名古屋市電気局(後の名古屋市交通局)に事業を譲渡して解散した。

運営していた電車は「中村電車」、バスは「中村バス」と呼ばれた[2]
概要

1913年大正2年)10月、名古屋市に隣接した中村(現・名古屋市中村区の一部)における開発事業を開始した会社の名古屋土地[3][4]が、軌道部を設立して路面電車事業に乗り出したことが創始である。最初の路線は、地上駅時代の名古屋駅を跨ぐためにかけられた明治橋(1937年〈昭和12年〉の高架化時に撤去)の西側を起点とし、太閤通を西進して中村公園の入口に至るものであった。鉄道事業者不動産事業を開始した例は、1910年(明治43年)開業の箕面有馬電気軌道(箕有電車、阪急電鉄の前身)を初として徐々に現れ始めていたが、逆に不動産会社が鉄道事業を行う事例は、現在では紀州鉄道山万などが存在するが、当時としては珍しいものであった。

1926年(大正15年)6月に名古屋土地から分社化された中村電気軌道の運営に代わり、そのころ後に名古屋鉄道の社長となる藍川清成が当初は取締役、続いて社長に就任した[5]。この年の電車の乗客は250万9845人であったが次第に減少し、1929年(昭和4年)の乗客は158万2957人となった[2]。乗客減少の要因は、駅前を発着せず不便であることと、名古屋駅前を発着し中村遊廓へ向かう他社のバスが1923年(大正12年)9月に運行を開始したためである[2][6]。このバスに対抗して中村電気軌道は1929年1月から名古屋駅前・中村公園間で兼営バスの運転を開始した[2][6]が、名古屋市営バス1933年(昭和8年)7月に那古野町・中村公園間に路線を新設したこともあり収益は少なかった[6]。また、電車は名古屋市電より運賃が高く評判が悪かった。

1936年(昭和11年)5月、1935年(昭和10年)から進められていた市内民営交通機関の統合によって中村電気軌道は名古屋市に買収され、電車事業・バス事業は名古屋市電気局(名古屋市交通局の前身)に移管された。買収価格は10万1300円[2][7]。買収前の1年間の乗客は、電車が36万8290人、バスが126万9436人であった[2]

中村電気軌道を買収した路面電車は中村線とされ、当初孤立路線であったが、東側は名古屋駅高架化に伴い笹島町まで延長され、既設の名古屋市電の路線に接続した。西側も豊国神社の大鳥居をくぐって中村公園に向かっていた区間を廃止して稲葉地町まで伸延されている。その後、中村線は1972年(昭和47年)2月29日まで運行を続けている。
沿革

1911年(明治44年)9月 - 名古屋土地株式会社設立。

同年12月27日 - 明治橋・中村公園前間の軌道敷設特許を申請。

1912年(大正元年)9月20日 - 軌道敷設特許を取得。

1913年(大正2年)10月17日 - 軌道部により、明治橋・中村公園間が開業。

1926年(大正15年)6月1日 - 名古屋土地軌道部が中村電気軌道株式会社として独立[8]

1929年(昭和4年)1月 - バス事業開始。

1936年(昭和11年)5月24日 - 電車・兼営バスともに名古屋市に事業譲渡[7]

鉄道事業
保有路線
保有路線データ

路線距離:明治橋 - 公園前間 3.3km

軌間:1,067mm

電化区間:全線

架線電圧:直流600V

中村変電所、常用、電動発電機(交流側2080V直流側600V)直流側の出力150KW、製造所不明、予備、電動発電機(交流側2080V直流側600V)直流側の出力75KW、製造所大阪電灯[9]


複線区間:なし(全線単線

停留場
1913年10月17日時点(開業時)
[10]
明治橋 - 笈瀬川 - 米野 - 野合 - 上中 - 稲葉地 - 公園前

大正中期に、米野を東米野に、野合を賑橋、上中(初代)を楠橋に改称。西米野・本社前・上中(2代)を新設[10]

1923年ごろ、賑橋を大門前に改称[10]

昭和初期に、東米野を藤の棚に改称[10]

1936年5月24日時点(市営化時)[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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