中村 栄助[1](なかむら えいすけ、1849年2月25日(嘉永2年2月3日)[2] - 1938年(昭和13年)9月17日[3])は、日本の実業家[1]、政治家。衆議院議員(当選2回、政友会)[4]。京都市会議員。京都府会議員。京都商業会議所副会頭[4]。幼名は栄三郎[2][5]。京都市長の高山義三は三男。 京都松原通西洞院東薮下町に生まれた[6]。先代栄助の長子[1][2]。本姓は高山で、後中村と改めた[1][2]。幼名は栄三郎で、家を継いで父の名を襲名して栄助と名乗った[2]。生家は油商(油仲買[7]、あるいは油問屋及び鰹節商河内屋[2][5])を営む。1864年の蛤御門の変の戦禍により五条大橋東に移転した[6]。 父に従い近畿、東山、北陸の諸道を跋渉して商業を実地に練習した[2][5]。清国豆油を輸入しその販売を試みた[2]。儒者・三国幽民に就き漢学を修め、後山本覚馬に従い政治経済学を研鑽した[2]。1876年頃新島襄に出会い[3]、キリスト教の真理を講究し同志社に入って英学を修めた[2][5]。1883年、同志社社員(理事)となり、J.D.デイヴィスから洗礼を受けた[3]。 1881年、京都府会議員に当選。1889年京都市会初代議長[8]。1892年に京都府会副議長、1894年には府会議長に就任(98年まで)[9]。府議として北垣国道府政を支え、琵琶湖疏水事業を完成に導いた。衆議院議員として2期にわたり国政にも参画した[10]。実業家としては電気、鉄道など新しい京都づくりに貢献し、平安建都千百年事業(1895年)を推進した[11]。1891年、京都商業会議所会員に選ばれ、その副会頭に推された[2]。 後半生は政財界から引退し、キリスト教と同志社教育のために身を捧げ、4度にわたって同志社社長(総長)代理を務めた[3]。墓は京都市左京区の同志社墓地にある[12]。 明治初期の最新人、京都の教会の礎である[7]。住所は京都五条橋東である[5][7]。栄助の職業は『日本紳士録 第24版』によると「鰹節商」[13]、『日本紳士録 第32版』によると「乾物商」である[14]。
経歴
人物同志社大学開校記念撮影(1912年5月、中列右から4人目が中村栄助)
信仰らと一緒に四条基督教会(日本基督教団京都教会)を設立し、1903年には京都基督教青年会の再建創立にも参画した[6]。
人柄
脚注^ a b c d 『日本現今人名辞典』
^ a b c d e f g h i j k 『衆議院議員列伝』
^ a b c d 『同志社山脈』 8 - 9頁。
^ a b 中村 栄助とはコトバンク。2017年10月27日閲覧。
^ a b c d e 『大日本人物誌 一名・現代人名辞書』な64頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年8月22日閲覧。
^ a b c 『日本キリスト教歴史大事典』995頁。
^ a b c 『同志社五十年裏面史』103 - 105頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。