中村忠夫
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 中村 忠夫 Tadao NAKAMURA
基本情報
名前中村 忠夫
生年月日 (1947-01-02)
1947年1月2日(77歳)
身長171 cm (5 ft 7 in)
体重80 kg (176 lb)
国籍 日本
出身地神奈川県
経歴
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中村 忠夫(なかむら ただお、1947年1月2日 - )は神奈川県出身のプロゴルファー

金沢カントリー倶楽部所属[1]

ニックネームは「ドラエモン」[2] [3]
来歴

八王子工業高校卒業[4]

18歳からゴルフを始め、1974年12月にプロ入り[2]

賞金ランクこそ1983年から99位、63位、61位、59位と上ってきてはいたが、シード入りは果せず、1986年の賞金獲得額も607万円であった[5]

1983年のかながわオープンでは河野高明東聡秋富由利夫河野和重に次ぎ、湯原信光矢部昭豊田明夫中村通と並んでの5位タイ[6]に入った。

1985年関西プロNST新潟オープン4位タイ[7] [8]中部オープン7位タイ[9]、1986年は中部オープン8位タイ[10]と3度のベスト10入りを果たす。

1987年日本プロマッチプレーでは杉原輝雄が腎のう胞による体調不良で欠場したため、繰り上げで急遽コース入りする[11]

欠場者が出て、誰かが代役になった[5]と聞いた時も、中村は所属する金沢ゴルフクラブでくつろいでいたが、前週のフジサンケイクラシックでの試合中にひらめいた”シャドウピッチングスイング” に磨きをかけた[12]。八王子工業高校時代に少しだけ野球をやったことのある中村は、川奈ホテルゴルフコースの17番パー3のティグラウンドに立った時、ホールインワン300万円の看板を横で見て自嘲し、「いまの自分のスイングではホールインワンはおろか、グリーンに乗せることもできないな。投げるんならなんとかなるかもしれないけどな」と思った[12]。その試合も予選落ちは確定的であった中村は前の組がパッティングをする様子を見ながら、何気なくシャドウピッチングをしだし、右腕が右肩の上から振り出されるのを見て「ボールを投げる手の位置がここなら、ショットも同じことではないのか」とひらめく[12]。金沢ゴルフクラブに戻った中村は、テークバックのトップの位置にこだわったスイング作りをしだした[12]

石川県金沢市の自宅から着替え一組とグローブ3枚を入れた小さなスポーツバッグ1つで駆け付け、出口栄太郎と対戦[11]。雨でずぶ濡れになるなど悪条件の中でパーを積み重ね、崩れた出口に3-2で勝利[11]。その後も代打で快進撃を続け、2回戦で鈴木弘一と取ったり取られたりのシーソーゲームを2-1で制して準々決勝に進出[11]。準々決勝の相手は中嶋常幸で、中村は「勝つつもりなんてなかった。気楽なもんですよ」と言いながらも、1ダウンの16番で追いつき、最終18番パー5で左に曲げてクリークに入れた中嶋は7mに4オンしたが、中村は3mにパーオンして勝負あり[11]であった。中嶋は試合後に「7番から4連続バーディーで攻めたが、そのうち2つが分け。直後の11番でバーディー奪い返すんだから、中村さんはただ者ではない」[11]と、中村に脱帽のコメントをした。準決勝はマッチ巧者の高橋勝成との一戦であったが、前日まで好調のショットもパッティングも思うようにいかず精彩を欠き、6-5で完敗[11]し快進撃は止まった。

日本プロマッチプレー3位で自信が大きくなったのか大化けし、それまでは6試合出場して4度の予選落ちであったが、その後の1週で、日本プロ6位を含め、ベスト10入りを5回も果すという快進撃を演じる[13]

日本プロでは初日に寺本一郎と共に首位三上法夫と1打差2位に着け、デビッド・イシイアメリカ)、金井清一、ブライアン・ジョーンズ(オーストラリア)、青木功横島由一に次ぐと同時に陳志明(中華民国)・高橋・三上を抑えての6位に入った[14]

NST新潟オープンでは初日は謝敏男中華民国)・稲垣太成が5アンダー首位タイで、中村は重信秀人ら7人と共に4アンダーで3位タイに入る[15]。 2日目は尾崎健夫が奮闘して通算6アンダーで首位に立ち、中村はパープレーの5位タイであったが、3アンダーに8人がひしめくという稀に見る混戦となり、誰が抜け出すのかまるで予想のつかない展開となった[15]。 この日、中村は10番からのスタートであったが、18番を終って再び10番ティに上り、コースの中程にいたフォアキャディに向って右手を差し上げて打つ合図を送った[15]。そしてティをポケットから出してティアップしようとしたところを、後からついてきた同伴の選手に、「そこで何やってんすか?」と言われてやっと間違いに気づいた[15]。打ってしまえばホール間の練習と見なされ、ペナルティがつくところであった[15]。3日目には初日に続いて67を出し、通算8アンダーで、ベテランの鷹巣南雄石井裕士と並んで首位に立ったが、最終日を最終組で首位として迎えるのは初めての経験であった[15]

最終日前夜には趣味のパチンコで気分転換をはかったが、優勝の2文字が頭にちらついて失敗し、結果は余計に心に負担をかけることになった[16]。迎えた最終日は重い雰囲気の中でティオフしていき、鷹巣・石井ともスコアを伸ばせず、下からの急追もあって試合はもつれる[16]痛の石井はこの日5オーバーを打って最初に脱落し、鷹巣は7番を終えて7アンダー、中村はそれまでスムーズに上っていたパターが全く上らなくなり、途中ボギーを2つ打って6アンダーまでスコアを落とす[16]。この日はジョーンズは17番のパー3でホールインワンをものにし、7アンダーで、イシイ・吉川一雄・謝錦昇(中華民国)と共にクラブハウスでプレーオフの準備をしていた[16]。中村は18番パー5で220ヤード、池越えの2打目を躊躇うことなく3番ウッドで打ち、北西の風4mの中でボールは風を斬って空中を舞い、グリーンの手前で落ちるとピンに向い、3m下に止った[16]。それを見た鷹巣の2打目のボールは池に消え、中村は「優勝すれば720万円だ」と自らに言いきかせてパターを動かした[16]。ボールは軽快に転がってカップに落ち、逆転イーグルで初優勝し、試合後に中村は大喜びで家族の待つ金沢に帰って行った[16]

40歳でツアー初優勝を果たすと、1989年の中部オープンでは内田繁・出口・松本紀彦を抑えてツアー2勝目を挙げる[17] [18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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