中村史郎
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この項目では、カーデザイナーについて記述しています。ジャーナリストの同名の人物については「中村史郎 (ジャーナリスト)」をご覧ください。

中村史朗」あるいは「中村四郎」とは別人です。

中村史郎
2015年フランス・国際自動車フェスティバル(フランス語版)にて撮影
生誕1950年10月17日
職業カーデザイナー工業デザイナー
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中村 史郎(なかむら しろう、1950年10月17日 - )は、日本カーデザイナー工業デザイナー
来歴・人物

大阪府出身。武蔵野美術大学工業デザイン専攻卒業。

ジェミニ(3代目)、ビークロス(ただし1993年発表のコンセプトカーのみ。)、ウィザード/ミュー(2代目)のチーフデザイナーとして参画。

いすゞ自動車時代より、アートセンター・カレッジ・オブ・デザインでの派遣留学、ゼネラルモーターズアドバンスデザインスタジオやいすゞヨーロッパエンジニアリング時代の経験や人脈を評価され、海外のヘッドハンティング会社を通じて日産自動車に移籍した。なお、この日産自動車への移籍に当たっては、1999年10月に行われたが、実際にヘッドハンティングの会社から打診があったのは同年6月末と本人が語っている。(参考:北野高校われら六稜人【第32回】右脳と左脳のホイールバランスに本人インタビュー掲載)

1999年以降、デザイン本部長として日産全車のデザイン決定に参画。
経歴

1974年 - 武蔵野美術大学工業デザイン専攻卒業後、いすゞ自動車入社。

1979年 - カリフォルニア州の私立大学アートセンター・カレッジ・オブ・デザインに派遣留学。

1981年 - 同校首席卒業

1985年 - GMデザインアドバンススタジオ

1989年 - いすゞヨーロッパエンジニアリング デザインマネージャー兼チーフデザイナー 

1991年 - いすゞピアッツァ(2代目)が発表される。

1993年 - いすゞビークロスが発表される。

1997年 - いすゞ自動車アメリカ 副社長(商品企画担当)

1998年 - いすゞ自動車デザインセンター部長に就任。

1999年 - 日産自動車カルロス・ゴーン日産自動車社長兼COO(当時)に引き抜かれ、移籍。当時日産は筆頭株主であるルノーから赴任してきたゴーンのもとでリバイバル・プランを進めていた。

2000年 - 日産デザイン本部長に就任、以後日産車の全てのデザインを任され、以後ゴーンと共に日産を牽引していく中心的な存在となる。

2001年 - 日産自動車 常務に就任。

2003年 - ベストドレッサー賞政治・経済部門受賞。

2006年 - 日産自動車 常務執行役員 (CVP) チーフ・クリエイティブ・オフィサー (CCO)

2014年 - 日産自動車 専務執行役員 (SVP) チーフ・クリエイティブ・オフィサー (CCO)

2017年 - 日産自動車 SVP退任。後任としてインフィニティブランドのチーフデザイナーであったアルフォンソ・アルベイザが日産自動車グローバルデザイン担当のSVPに就任する[1][2][3][4]

著書

『ニホンのクルマのカタチの話』
毎日新聞社2011年3月 ISBN 978-4620320441

脚注^ “役員体制の変更について”. 日産自動車 (2017年3月14日). 2017年4月23日閲覧。
^ “日産のチーフ・デザイナー、中村史郎氏が退任 後任はインフィニティのアルベイザ”. AUTOCAR JAPAN (2017年3月14日). 2017年4月23日閲覧。
^ “日産、中村史郎氏が退任。アルフォンソ・アルベイザ氏がデザインのトップに”. Car Watch (2017年3月14日). 2017年4月23日閲覧。
^ “ ⇒Nissan design chief Shiro Nakamura retires”. Autoblog (2017年3月14日). 2017年4月23日閲覧。

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