中村勘三郎_(18代目)
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じゅうはちだいめ なかむら かんざぶろう
十八代目 中村 勘三郎


屋号中村屋
定紋角切銀杏 
生年月日1955年5月30日
没年月日 (2012-12-05) 2012年12月5日(57歳没)
本名波野哲明
襲名歴1. 五代目中村勘九郎
2. 十八代目中村勘三郎
別名藤間勘暢(日本舞踊 藤間流
猿若勘三郎(日本舞踊 猿若流
出身地東京都
祖父三代目中村歌六(父方)
六代目尾上菊五郎(母方)
十七代目中村勘三郎
母波野久枝(六代目菊五郎の娘)
兄弟波乃久里子(長姉)
澤村千代枝(次姉・二代目澤村藤十郎の妻)
妻波野好江(七代目芝翫の娘)
六代目中村勘九郎(長男)
二代目中村七之助(次男)
当たり役
『春興鏡獅子』の女小姓弥生、のちに獅子の精
『梅雨小袖昔八丈(髪結新三)』の髪結新三
鰯売恋曳網』の猿源氏
隅田川続俤』の法界坊
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十八世勘三郎襲名披露興行中の歌舞伎座正面(2005年)

十八代目 中村 勘三郎(なかむら かんざぶろう、1955年〈昭和30年〉5月30日 - 2012年〈平成24年〉12月5日)は、歌舞伎役者、俳優。本名は波野 哲明(なみの のりあき)。屋号中村屋定紋角切銀杏、替紋は丸に舞鶴。舞踊名に藤間 勘暢(ふじま かんちょう)、猿若 勘三郎(さるわか かんざぶろう)がある。

子役時代から46年間名乗った前名である五代目 中村 勘九郎(なかむら かんくろう)としても知られた。愛称は本名からきた「のりちゃん」。

所属事務所は ⇒ファーンウッド
人物

歌舞伎役者としては江戸世話物から上方狂言時代物新歌舞伎から新作など、幅広いジャンルの役柄に挑み続けたことで知られた。コクーン歌舞伎平成中村座を立ち上げ、渡辺えり野田秀樹串田和美などといった現代劇の劇作家、演出家らと組んで、古典歌舞伎の新解釈版や新作歌舞伎の上演に取り組んだり、地方巡業や海外公演も精力的に行うなど、その演劇活動は常に進取的であった。

また現代劇にも積極的に出演し、特に長姉・波乃久里子藤山直美柄本明らと組んで出演した『浅草パラダイス』は長期にわたる人気演目となった。2006年(平成18年)には同じ顔合わせで『ヨイショ!の神様』にも出演している。

父は十七代目中村勘三郎、父方の祖父は三代目中村歌六、母方の祖父は六代目尾上菊五郎で、長男は六代目中村勘九郎、次男は二代目中村七之助。母方の伯父に七代目尾上梅幸二代目尾上九朗右衛門、叔父には六代目清元延寿太夫二代目大川橋蔵がいる。妻・好江は七代目中村芝翫の次女で、日本舞踊中村流二代目中村梅彌は義姉、九代目中村福助八代目中村芝翫は義弟にあたる。また、次姉・千代枝の夫は二代目澤村藤十郎で義兄にあたる。さらに、七代目尾上菊五郎七代目清元延寿太夫丹羽貞仁は母方の従兄弟。ほか、部屋子に生前「三人目の倅」と可愛がっていたという二代目中村鶴松がいる。

また同世代の歌舞伎役者とも交流が広く、自著でも名前を挙げ、特に懇意にしている役者としては十代目坂東三津五郎坂東彌十郎らがおり、コクーン歌舞伎や平成中村座公演など自身の公演の脇役としても数多く起用するなど、その信頼は厚かった。

しかし2012年(平成24年)、後述のとおり食道癌を発端として徐々に体調を崩していき、同年12月5日急性呼吸窮迫症候群のため死去した。

2013年(平成25年)4月には新生・歌舞伎座こけら落としを控えていた歌舞伎界に在って、その牽引役の一人と目されていた十八世勘三郎の死去は梨園に留まらず、各界各方面から「大きな損失」と惜しまれた[1]
年譜

1955年(昭和30年)5月30日、
東京都に生まれる。十七代目中村勘三郎の長男。姉は新派女優波乃久里子

1959年(昭和34年)4月、歌舞伎座『昔噺桃太郎』の桃太郎で五代目中村勘九郎を襲名して初舞台を踏む。

以後、舞台、映画、テレビ・ラジオで子役として活躍。その天真爛漫で、有名俳優との共演にも物怖じひとつしない、のびのびとした演技は「天才少年」と称され、父や祖父の芸を受け継ぐ、歌舞伎界のホープとして期待された[2]思春期を迎えて以降も、父・十七代目勘三郎からの厳しい指導の傍ら、ミュージカルなど、様々な分野の活動に貪欲に挑み、演技力に磨きをかけていく。その後も貪欲に学び、勇壮な立役から女方まで幅広い役柄を器用に演じ、当代随一の人気俳優となっていった[2]。「元禄忠臣蔵」や「髪結新三」、そして「鏡獅子」などの舞台は特に高い評価を得た[2]


1980年(昭和55年)11月27日、七代目中村芝翫の次女・好江と結婚式を執り行う。

1990年(平成2年)8月休演が通例となっていた歌舞伎座で「納涼歌舞伎」を初上演する。

1994年(平成6年)5月シアターコクーンで「コクーン歌舞伎」を初上演する。

2001年(平成13年)8月、野田秀樹脚本・演出による新作歌舞伎『野田版 研辰の討たれ』を歌舞伎座で上演する。大評判となり、第1回朝日舞台芸術賞グランプリを受賞して、勘九郎個人も舞台芸術賞(コクーン歌舞伎公演、平成中村座公演等の成果と併せて)を受賞する。

2004年(平成16年)

7月、ニューヨーク市リンカーンセンター内に、平成中村座を設営して『夏祭浪花鑑』を上演。演出に串田和美を迎え、幕切れでは花道から続々と出てくる目明かしの代わりにニューヨーク市警の警官たちを舞台奥からパトカーで登場させ、団七・徳兵衛にピストルの銃口を一斉に向けて「フリーズ!」と叫ばせ、観客を驚かせた。ニューヨーク・タイムズ紙は「(当時上映中の)大作映画よりはるかに刺激的で面白い」と絶賛した。

12月、歌舞伎座上演の渡辺えり子脚本・演出による『苦労納御礼・今昔桃太郎』(くろうの かいあり かんしゃ かんしゃ・いまはむかし ももたろう)の桃太郎で五代目勘九郎としての舞台納め。初舞台作品を洒落のめした舞踊劇。


2005年(平成17年)3月3日、歌舞伎座『鬼一法眼三略巻』「一條大蔵譚」の一條大蔵卿、『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋」の佐々木盛綱ほかで十八代目中村勘三郎を襲名。以後5月まで3ヵ月間にわたる襲名興行は十二代目市川團十郎以来の事。

2006年(平成18年)、前年の定期公演主体の襲名披露を終え、この年は巡業公演で各地を襲名披露に訪れる。愛媛県の内子座、岐阜県の数箇所など、昔ながらの芝居小屋を活用。名古屋では、名古屋平成中村座も開設。歳末に京都南座顔見世興行で一連の襲名興行を打上げる。

2007年(平成19年)7月、平成中村座ニューヨーク公演。今回はリンカーンセンターのエイヴリー・フィッシャー・ホールの内装を芝居小屋風にして上演。演出は再び串田和美で、『隅田川続俤』(法界坊)を科白の一部を英語で廻したり、花道は設けずに既存の通路のそこかしこを駆使した工夫を凝らした演出が好評だった。

2010年(平成22年)暮れに特発性両側性感音難聴を発症して暫く休養[3]、2011年7月24日に長野県松本市まつもと市民芸術館での特別公演で舞台に復帰[4]

2011年(平成23年)11月から2012年(平成24年)5月にかけ、自身の長男・中村勘太郎の六代目勘九郎襲名披露舞台(3月)を含む平成中村座ロングラン公演を行う。

2012年(平成24年)

5月30日、57回目の誕生日を迎え、翌31日に平成中村座ロングラン公演千秋楽。長期公演を無事成功させ、その後に受けた健康診断で、初期の食道癌に罹患していることが判明したため、6月18日、年内の演劇活動を停止し療養に専念することを発表した[5]

癌公表後の7月18日に長野県松本市まつもと市民芸術館での『平成中村座 信州まつもと大歌舞伎』の『天日坊』千秋楽で木曽義仲の役でサプライズ出演[6]、そのカーテンコールで舞台衣装姿のまま登場し、観客の声援に応えて「必ずや松本(の舞台)に帰って来てみせます」と挨拶。これが最後の舞台出演であり、かつ公の場での最後の姿となった[7]。手術は桑田佳祐と同じ執刀医により行われ[8]、7月27日に食道癌摘出手術を行う[9]、一時は病棟内を歩行できるまでに回復した[10]

11月13日、快方に向かっていたが、9月に入り、肺疾患が見つかったことが松竹・所属事務所ファーンウッドの連名で発表[11][注 1]。翌14日には、肺疾患が癌の転移ではなく、抗がん剤治療などに伴う免疫力低下の影響からウイルスに感染、肺炎を発症したこと、さらに、その悪化により急性呼吸窮迫症候群から肺水腫を発症し、人工肺および人工呼吸器を使用しているなど、詳細な病状とともに、重篤な状態であることが報道された[13]

12月5日午前2時33分、急性呼吸窮迫症候群のため、東京都文京区日本医科大学付属病院で死去。満57歳没 (享年58)[14]。最期は家族の他、親交の深かった女優の大竹しのぶ演出家野田秀樹野球評論家江川卓が看取った[15]

12月10日、都内文京区の自宅で通夜が営まれた。あくまで「近親者だけの密葬」とされていたが、長嶋茂雄宮沢りえ山田洋次、七之助の高校時代の同級生だった松本潤ら、各界から約700名が弔問、改めてその人柄と広い交友関係が偲ばれた。また、一時は自宅前から約80メートルの長い列ができるほどだった[16]

翌11日、告別式・葬儀が営まれ、この時も約500名を数える関係者が参列、その早過ぎる別れを惜しんだ。棺には歌舞伎の「船弁慶」の前半部で着用される静御前の衣装が掛けられ、中には2013年4月開場予定の新しい歌舞伎座の完成予想図や好江夫人との写真が納められた。


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