この項目では、東京都江東区の私立中村中学校・高等学校について説明しています。
高知県四万十市の県立校については「高知県立中村中学校・高等学校」をご覧ください。
愛知県名古屋市の県立校については「愛知県立中村高等学校」をご覧ください。
山口県山口市の私立校については「中村女子高等学校」をご覧ください。
その他の中村学園については「学校法人中村学園」をご覧ください。
中村中学校・高等学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度40分53.1秒 東経139度47分48.3秒 / 北緯35.681417度 東経139.796750度 / 35.681417; 139.796750
中村中学校・高等学校(なかむらちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都江東区清澄二丁目に所在する私立中学校・高等学校。1903年、実業家の中村清蔵によって設立された私立深川女子技芸学校を起源とする。 中村清蔵(1861?1925)は、明治・大正時代の実業家。旧名は鈴木半次郎。1876年に、日本橋小網町の焼き芋屋から米穀商「上総屋」へと成功した千葉出身の叔父・清右衛門(初代清蔵)の養子となり、「上清(じょうせい)」の名で早くから深川正米市場に進出し米相場で成功し、同市場の有力者となった[1]。1885年に東京市深川区深川佃町で「かねじょうみそ」の名で味噌醸造を始め(のちの日本味噌株式会社)、倉庫業にも進出[2][3]。1901年中加貯蓄銀行会長、翌年倉庫銀行頭取に就任[2]。1907年頃に正米市場を離れて実業方面に注力し、金城銀行、明治商業銀行、大日本製糖、日本護謨などの重役を務め、深川区議、東京府議も務めた[1]。兄の孫に鈴木久五郎[4]。
沿革
1903年 - 深川女子技芸学校 設立
1909年 - 中村高等女学校 創立
1923年 - 関東大震災により校舎焼失
1925年 - 現在地に新校舎落成
1927年 - 制服制定
1928年 - 校歌制定
1945年 - 東京大空襲により校舎焼失
1947年 - 学制改革により中村中学校新設
1948年 - 中村高等学校に改称
1949年 - 新校舎落成
1959年 - 新校舎落成
1969年 - 中村中学校募集休止
1991年 - 中村中学校募集再開。制服改定
1999年 - 新校舎落成
2000年 - 高等学校普通科に国際コース設置
2005年 - 国際コースを国際科に改組
2006年 - 完全中高一貫校化(2009年度より高等学校の募集停止)
2009年 - 新制服制定
2017年 - 国際科に限り、高等学校の外部募集を再開。
2019年 - 普通科外部募集再開予定。
2020年 - 普通科外部募集を再開。
創設者
部活動
運動部
バレーボール部
バスケットボール部
バドミントン部
テニス部
バトン部
ダンス部
新体操部