中朝国境
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中朝国境
白頭山山頂の天池を二等分するように国境が引かれている。
特徴
対象 中国 北朝鮮
延長1,420 km
歴史
制定1712年
最終変更1962年10月12日

中朝国境条約調印
条約日清協約
中朝国境条約(中国語版)
図們江左岸は中国図們市、右岸は北朝鮮南陽労働者区遼寧省丹東市にある中朝友誼橋(右側)。中央の橋は中国側で途切れた鴨緑江断橋上河口国門鉄道橋吉林省にある中朝辺界碑

中朝国境(ちゅうちょうこっきょう)は、中華人民共和国(中国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との間の国境である。国境線の総延長は約1,420 kmであり[1]、そのうち河川による自然国境が93 %を占める。
地理

中朝国境は鴨緑江[2]白頭山(長白山)および豆満江(図們江)から形成される[3]。中朝国境のうち鴨緑江が795 kmを占め、全長の56 %に相当する。豆満江が国境全長の37 %を占めるほか、白頭山が107 km(全長の7 %)を占める。豆満江の河口から約17 kmの地点(中露朝三国国境)が中朝国境の北東側の終点であり、中露国境露朝国境の起点を形成する。

国境に接する最大の都市は中国の遼寧省丹東市である[4]。対岸には北朝鮮の平安北道新義州市がある。2つの都市は国境西端の黄海に面した鴨緑江デルタ上にあり、中朝友誼橋で結ばれている。

鴨緑江には205の中州)がある。北朝鮮と中国との間の1962年の国境条約により、それぞれの島に住んでいる民族によって所属国を分けた。北朝鮮は127、中国は78の島を有している。この分割基準により、黄金坪などの一部の島は、川の中国側に位置しているが北朝鮮に属している。両国とも、デルタ地帯を含む鴨緑江の航行権を有している。

鴨緑江の源流は白頭山の天池であり、ここは満州民族朝鮮族の発祥の地であるとされる。この湖は、国境の東側を形成する豆満江の源流でもある。

中朝間の貿易の多くは丹東港で行われている[2]

丹東の旅行者は、高速船に乗って鴨緑江の北朝鮮側の河岸やその支流に入ることができる[5]
歴史

朝鮮半島初の統一国家である新羅の領土は大同江下流域までであったが、高麗の全盛時になると北西部の領土は鴨緑江の下流部にまで広がった。その後李氏朝鮮の全盛時には、北の境界は鴨緑江・豆満江に達した。は豆満江の両岸に地方行政機関を設置し、朝鮮に隣接する豆満江の南岸に会寧、富寧、鐘城、隠城、慶源、慶興の6つの町を設立した。

1712年、朝鮮政府は康熙帝の要求に応じて、鴨緑江・豆満江の共通の源流である天池のある白頭山の境界を明らかにするために穆克登を派遣して調査を行い、白頭山から南東に4kmほど下った地点の分水嶺上に「大清烏喇総管穆克登奉旨査辺、至此審視、西為鴨酷決ラ土門、故於分水嶺上勒石為記」(大清烏喇の総管・穆克登は、辺境の調査の勅旨を奉じて、この地に至ってよく観察を行い、西の国境を鴨緑とし、東の国境を土門とするので、分水嶺上において記録のために石に刻む)と記された石碑「定界碑」を立てた。これにより、天池や白頭山の山頂は全て清の領土に含まれた。

1885年9月から11月にかけて、清朝両国は「乙酉勘界」と呼ばれる第1次勘界(国境調査と交渉)を実施した。朝鮮側は、石碑に記された「土門」とは豆満江の北にある「土門江」(豆満江の支流・?呀河水系の海蘭江に流れる川)のことであるとし、その間にある間島の領有を主張した。清は、自然な国境は豆満江であるとして譲らず、合意に至らなかった[6]1887年4月から5月にかけて「丁亥勘界」と呼ばれる第2次勘界が行われた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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