「東京中日スポーツ」とは異なります。
中日スポーツ
THE CHUNICHI SPORTS
中日スポーツ発行元の中日新聞本社
種類日刊紙
サイズブランケット判
事業者(株式会社中部日本新聞社→)
株式会社中日新聞社中日スポーツ総局
本社(愛知県名古屋市中区御幸本町通2-24→)
愛知県名古屋市中区三の丸1-6-1
代表者大島宇一郎(代表取締役社長)
斎田太郎
中日スポーツ(ちゅうにちスポーツ)は、中日新聞社発行の日本の東海・北陸地方を主な販売地域とする日刊スポーツ新聞である。1954年(昭和29年)2月25日創刊。略称中スポ(ちゅうスポ)[注釈 1]。発行部数は271,987部(2022年10月)[1]。 大東亜戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)終結に伴い、職業野球が再開され、中部日本新聞社傘下の『中部日本軍』(旧・名古屋軍。現・中日ドラゴンズ)も活動を再開した。詳細は「中日ドラゴンズ#戦後」および「1946年の野球#できごと」を参照 当時の中部日本新聞社(現:中日新聞社)では、プロ野球関係の記事については「中日ウィークリー」〔1948年(昭和23年)9月3日・発刊〕で掲載していたが、プロ野球がセ・パによる2リーグ制に移行したのを機に、1950年(昭和25年)3月17日に週刊紙(タブロイド紙。8ページ。10円)として独立した。1面を写真で見せたほか、プロ野球の戦評・サイドニュース、競輪や競馬記事なども独立させ、その当時中部地区へ進出を狙っていた東西の各スポーツ紙の出ばなをくじく事になった。1953年(昭和28年)から日刊紙へ移行する計画が練られていたが、広告スポンサーが集まらず、計画実現を阻んでいた。しかし、地元広告代理店三晃社の創業社長松波金弥
概略
歴史
1954年(昭和29年)2月1日、名古屋市中区御幸本町通の旧社屋にあった編集局の西側に「中日スポーツ編集部」が12人体制で発足、全国の日刊スポーツ紙では6番目の「中日スポーツ」が誕生した。ページ数も4ページ(中日スポーツとしての創刊年月日より)→6ページ〔1958年(昭和33年)4月1日?〕→8ページ〔1962年(昭和37年)4月1日?〕と年を追うごとに増やしていく。1962年(昭和37年)10月1日、新聞業界初の事業部制実施を機に、編集局の「中日スポーツ編集部」→現在の「中日スポーツ総局」へ昇格し、同日より読者の要望に応える紙面刷新を行う。1964年(昭和39年)4月1日からは10ページに増やす。
1966年(昭和41年)11月3日に東京競馬場で開催された第54回天皇賞(秋)を前に、東京中日新聞(現・東京中日スポーツ)と共同でHITAC(日立製)3010電子データ選別装置による出走馬11頭の戦力分析を行い、「中日が初めてギャンブルにコンピュータを使用した」と週刊誌で話題になる[3]。 東海3県(愛知県、岐阜県、三重県)と静岡県、滋賀県、北陸地方(富山県、石川県、福井県)の全域だが、長野県の一部地域及び和歌山県新宮市も販売エリアである。
販売エリア