中川郡(なかがわぐん)は、北海道(天塩国)上川総合振興局の郡。
人口5,671人、面積1,542.46km²、人口密度3.68人/km²。(2024年4月30日、住民基本台帳人口)
以下の2町1村を含む。 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記2町1村に名寄市の一部(智恵文)を加えた区域にあたる。 天塩川の中流域に位置することに由来する[1]。 江戸時代の中川郡域は西蝦夷地に属し、松前藩によって開かれていたテシホ場所に含まれた。江戸時代後期になると文化4年南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え、中川郡域は天領とされた。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり庄内藩が警固を行い、同6年以降は庄内藩領となっていた(6藩分領)。 戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年8月15日、大宝律令の国郡里制を踏襲して中川郡が置かれた。
美深町(びふかちょう)
音威子府村(おといねっぷむら)
中川町(なかがわちょう)
郡域
郡名の由来
歴史
郡発足までの沿革
郡発足以降の沿革北海道一・二級町村制施行時の天塩国中川郡の町村(19.下名寄村 20.中川村 21.常盤村 青:区域が発足時と同じ町村および合併を経ていない町村 黄:名寄市)
明治2年
8月15日(1869年9月20日) - 北海道で国郡里制が施行され、天塩国および中川郡が設置される。開拓使が管轄。
8月17日(1869年9月22日) - 水戸藩の管轄となる(北海道の分領支配)。
明治4年8月20日(1871年10月4日) - 再び開拓使の管轄となる。
明治5年
4月9日(1872年5月15日) - 全国一律に戸長・副戸長を設置(大区小区制)。
10月10日(1872年11月10日) - 4月に設置された区を大区と改称し、その下に旧来の町村をいくつかまとめて小区を設置(大区小区制)。
明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
明治9年の大区小区
第29大区
1小区
明治12年(1879年)7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての中川郡が発足。
明治13年(1880年)3月 - 留萌郡外六郡役所(留萌天塩中川上川苫前増毛郡役所)の管轄となる。
明治14年(1881年)7月 - 増毛郡外六郡役所(増毛留萌天塩中川上川苫前郡役所)の管轄となる。
明治15年(1882年)2月8日 - 廃使置県により札幌県の管轄となる。
明治19年(1886年)1月26日 - 廃県置庁により北海道庁札幌本庁の管轄となる。
明治30年(1897年)11月5日 - 郡役所が廃止され、増毛支庁の管轄となる。同年下名寄村を設置。
明治32年(1899年)5月20日 - 上川支庁の管轄となる。
明治39年(1906年)- 中川村を設置。
大正4年(1915年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により下名寄村(二級村、単独村制)が発足。(1村)
大正5年(1916年)- 中川村から常盤村が分村。
大正8年(1919年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、中川村、常盤村(いずれも二級村、単独村制)が成立する。(3村)
大正9年(1920年)6月1日 - 下名寄村の一部(下名寄村1 - 6部・チエブン原野)が分立して智恵文村(二級村)が発足。
Size:30 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef