中川智正
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オウム真理教徒中川 智正
誕生 (1962-10-25)
1962年10月25日
日本岡山県岡山市北区
死没 (2018-07-06) 2018年7月6日(55歳没)
日本広島県広島市中区広島拘置所
出身校京都府立医科大学医学部医学科
ホーリーネームボーディサットヴァ・ヴァジラティッサ
ステージ正悟師
教団での役職法皇内庁長官
入信1988年2月
関係した事件坂本弁護士一家殺害事件
松本サリン事件
地下鉄サリン事件
判決死刑(執行済み)
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中川 智正(なかがわ ともまさ、1962年10月25日 - 2018年7月6日)は、元オウム真理教幹部・元死刑囚岡山県岡山市出身。ホーリーネームはヴァジラ・ティッサ[1]
来歴
前半生

岡山市内の繁華街で洋服販売店を営む両親のもとに長男として生まれる。1978年3月岡山大学教育学部附属中学校卒業。中学時代の同級生に、浅草キッド水道橋博士[2]ザ・クロマニヨンズ 甲本ヒロトらがいる。1981年3月、岡山県立岡山朝日高等学校卒業。高校時代には「嫌いな人間はいない」と豪語[3]。体が丸いのでついたあだ名は「ケツ」[4]手塚治虫「ブッダ」の影響で医師の道を目指し、一浪を経て1982年京都府立医科大学医学部医学科に進学[5]。大学では柔道部に所属した[1]

5年生のときに大学祭の実行委員長を務め、明るく温厚で実直な人柄から交友関係は広かった。活発な人柄で、1986年10月25日、京都教育文化センターで開催された「プレフェスティバル86」ではハーモニカの独奏をしている[6]。また、6年間障害者のボランティアをしていて、学園祭では車椅子を押して会場を回るなど、このころまでの中川については正義感が強く心優しい青年だったと評価する声が多い[1][7]
入信・出家

1988年2月24日、オウム真理教に入信。

オウムと最初の出合いは、1986年11月にたまたま見かけた麻原の著作『超能力秘密の開発法』を読んだことである。当初は特に興味もわかず、本も途中までしか読まずに放置した。しかし、医師国家試験合格から就職までの空いた期間に、ほんの興味本位で麻原のヨガ道場をのぞいたことが発端となった。1988年1月に宣伝ビラや情報誌で早川紀代秀らが企画したオウム真理教の音楽コンサート「龍宮の宴」の開催を知り、どうしても行かねばならぬような気がして、1988年1月に最終公演を観に行った。初めて麻原に会ったが、麻原に後ろからいきなり「中川」と声をかけられた。初めて会ったのになぜ自分の名前を知っているのだろうと驚きを感じた。直後大阪支部道場に行って早川紀代秀と話した。それでも入信する気は起きなかったが、「龍宮の宴」から数日後「お前はこの瞬間のために生まれてきたんだ」という幻聴が聞こえるなどの神秘体験を経験。その日から教団の道場に通い詰めるようになる。中川はこの神秘体験について「自宅で瞑想中、光が体を突き抜け、あたり一面が真っ白になった。別の世界があると確信し、この世では生きていけない気持ちになった[8]」と語っている。1988年2月に再び大阪支部に行き平田信新実智光井上嘉浩と話し、入信を決意した[1][9][10]

1988年5月に医師免許を取得し、研修医として大阪鉄道病院で一年ほど勤めたが、6月に体から意識が抜け出すのを感じて手術室で失神。精神科も受診したが通院は続かず、1989年8月31日、「人を救いたい。(麻原を)一生の師と慕っていく」と親や周囲の反対を押し切って退職し、看護婦の恋人とともに出家(恋人は後に中川とともにサリン生成に従事して逮捕され、殺人予備罪で起訴された)[1][8][9]。知人によると、出家直前は蓮華座を組んで半泣きになりながらジャンプしたり、頭を触られるのを嫌がる(エネルギーが抜けると信じられていたため)など、異様な状態になっていたという[11]
出家後

1990年7月頃にオウム真理教附属医院が開設されると同医院の医師となったが、診察は行わず麻原彰晃の主治医として健康管理などをしていた[12]。麻原の子を孕んだ石井久子帝王切開も担当したが、経験が無かったので薬の投与を間違え石井を殺しかけたこともあった[13]早川紀代秀にも生物兵器対策のワクチンを誤って多く注射し殺しかけている[14]

1990年第39回衆議院議員総選挙には真理党から旧神奈川3区で立候補。結果は1,445票と、真理党では麻原に次ぐ得票数だったものの、最下位で落選した。

教団が1994年省庁制を採用すると、法皇内庁長官になり、側近として活動した[12]地下鉄サリン事件の3日前の尊師通達で正悟師に昇格。後述する教団の一連の事件に関与し、1995年5月17日に逮捕された。起訴された事件は麻原の13件に次ぐ11件で、その死者の累計は26人にのぼった[1]

1995年8月22日、「医師としての資格と知識を持ちながら数々の犯罪に加担して社会に迷惑をかけた。責任の重さを痛感し、医師と名乗ることをやめようと決意した[15]」として、自らの申請により医師免許取消。それでも死刑確定後も医学書は「無駄だね」と友人に言われながらも手元に置いていた[16]
坂本弁護士一家殺害事件

出家してわずか2ヵ月後の1989年11月4日、麻原の指示を受けた中川は坂本弁護士一家殺害事件に実行犯として関わることになる。

坂本宅に侵入し、中川が坂本の妻の首を絞めている時、坂本の子どもが突然泣き出した。驚いた中川は(本人の言によれば、「子どもをなんとかしろ」と自分の心臓からの声に従って[1])手にしたタオルケットで子どもの鼻と口を塞ぐと子どもはぐったりとした。一家三人惨殺後、中川は虚ろな瞳で誰に言うともなく「はははは…。子どもを殺してしまいましたよ。はははは…。」としゃべっていた[17]。他方で、「息が聞こえるくらいの近さに麻原氏がいるという一体感を感じてうれしかった」とも語っている[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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