なかがわ こじゅうろう
中川 小十郎
生誕 (1866-02-18) 1866年2月18日
日本 丹波国南桑田郡馬路村
死没 (1944-10-07) 1944年10月7日(78歳没)
日本 京都府京都市
出身校東京帝国大学
職業
政治家
官僚
教育者
実業家
貴族院議員
文部省官僚(勅任官)
内閣書記官
総理大臣秘書官
文部大臣秘書官
京都帝国大学書記官
立命館館長・学監
台湾銀行頭取
朝日生命保険(現在の大同生命保険)副社長
加島銀行理事
広岡礦業理事
東京山手急行電鉄(現在の小田急電鉄)取締役、監査役
子供流政之
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中川 小十郎(なかがわ こじゅうろう、1866年2月18日〈慶応2年1月4日〉 - 1944年〈昭和19年〉10月7日)は、明治・大正・昭和時代の日本の政治家(貴族院議員等)で、官僚(文部省官僚等)、教育者(京都法政学校〈現・立命館大学〉創立者等)、実業家でもある。 中川小十郎は、丹波国南桑田郡馬路村(現・京都府亀岡市馬路町)生まれ。著名な親族としては、息子の流政之(彫刻家)と孫の中川祐夫(刑法学者)がいる。文人としての筆名は非常に多く、「蓑笠亭主人」「青梅学人」「青梅生」「青山隠士」「竹筆老夫」「口羽山人」「白雲道人」「白雲老人」「藤の舎主人」「弘川東一郎」「竹軒亭」「磊磊居士」などがある[1]。 中川小十郎は、戊辰戦争以来西園寺公望に仕えた丹波の郷士の中川家に、中川禄左衛門とさきの長男として生まれた。同家は清和源氏の流れを汲み、美濃国安八郡中川庄に起源があるとされる[* 1]。そのため、小十郎の父・禄左衛門はその雅号を「美源」と称していた。 6歳のとき、小十郎は父の弟・中川武平太・美幾夫婦の養子となった。中川家のあった馬路村は幕末・維新期に長州藩士の京都にもっとも近い亡命地となり、その勤王・倒幕思想の影響を受けた郷士が多く、小十郎の実父・中川禄左衛門もその一人であった。戊辰戦争の際には、中川家と並び地元の有力勤王郷士だった人見家とともに「弓箭組」を組んで西園寺公望に仕えたが、これを代表したのが養父の中川武平太であった。養子になった小十郎は、桑田郡十二区馬路村の「致遠館」小学校に入学し、当時「致遠館」の校長を勤めていた田上綽俊[* 2] の薫陶を受け、田上の家塾に住み込むようになった。養父・武平太は、いずれ小十郎を僧堂で仏道修行をさせようと考えており、田上が能登七尾町(現在の石川県七尾市)にある本願寺に移る際にもこれに同行させた。その後、武平太の指示で美濃郡伊深村(現在の岐阜県加茂郡)にある正眼寺に禅学修行に出されそうになったが、たまたま東京から帰郷していた叔父・中川謙二郎は、小十郎に洋学を修めさせるよう武平太らを説得した。中川謙二郎は、小十郎の実母・さきの弟で、文部省視学官、仙台高等工業学校(現・東北大学工学部の母体)の初代校長、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の校長を務めた人物であった。 叔父・中川謙二郎の勧めで13歳の時に上京した小十郎は、謙二郎の家に寄宿し、のちに顕官となる岡田良平、その実弟・一木喜徳郎らと生活をともにした[* 3][* 4]。東京府第一中学、途中成立学舎での受験期間を挟んで、第一高等中学校(大学予備門)を経て、帝国大学法科大学政治学科(のちの東京帝大、現在の東京大学法学部)へ進学。中川は一時期、東京専門学校(現・早稲田大学)にも在籍していた[* 5]。大学予備門時代の同級生には、夏目漱石(塩原金之助)、山田美妙(山田武太郎)、正岡子規(正岡常規)、柴野是公(後の満鉄総裁中村是公)、南方熊楠らがいた[* 6]。なかでも漱石とは親しく[* 7][* 8][* 9]、漱石の作品『落第』には、中川との様子が描かれている。この頃、中川は「成立学舎」の出身者らを中心に、夏目漱石、中村是公、太田達人、佐藤友熊、橋本左五郎らとともに「十人会」を組織している。 東京に出た中川小十郎は、西園寺公望の知遇を得て、東京神田の西園寺邸に出入りするようになった。中川の養父・中川武平太、実父・中川禄左衛門が戊辰戦争で西園寺に従軍して以来、西園寺と中川家が主従関係にあったこと、叔父・中川謙二郎が明治初年から大正期にかけて西園寺公望と親しくしていたことが西園寺公と小十郎の親密な関係の礎となった。 帝大時代の小十郎は、卒業後は農商務省に進みたいと考え、予備門の恩師木下廣次に同省次官・斎藤修一郎を紹介してもらったが、就職面接での先方の態度に憤慨し断りを入れてしまった[* 10]。そこで木下廣次から文部省 中川小十郎の教育理念は特に女子教育を重要視するもので、これはお茶の水女子大学・校長だった叔父・中川謙二郎の影響を大きく受けたものと思われる[* 13]。
概要
来歴・人物「白雲荘」(京都市上京区寺町今出川)
学校法人立命館が所有・管理する中川小十郎の旧邸。校友会・学会などに利用されてきたが、現在は老朽化により開放されていない。
幼少期
学生時代
文部省入省
中川小十郎の教育思想