中川家
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この項目では、お笑いコンビについて説明しています。岡藩主家・伯爵家の中川家については「中川氏」をご覧ください。

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メンバー
礼二
結成年1992年
事務所吉本興業
活動時期1993年 -
出身NSC大阪校11期
出会い実兄弟
旧コンビ名中川兄弟、中川中川
現在の活動状況テレビ・ライブなど
芸種漫才
コント
ものまね
ネタ作成者両者
(漫才:剛、コント:礼二)
現在の代表番組中川家&コント
過去の代表番組せやねん!
リチャードホール
中川家ん!
ジャイケルマクソン
中川家 家電の流儀など
同期陣内智則
ケンドーコバヤシ
ハリウッドザコシショウなど
公式サイト公式プロフィール
受賞歴
1995年 第30回上方漫才大賞 新人賞
1996年 第17回ABCお笑い新人グランプリ 最優秀新人賞
2001年 第30回上方お笑い大賞 最優秀技能賞
2001年 M-1グランプリ 優勝
2002年 第40回ゴールデン・アロー賞 芸能賞
2003年 国立演芸場花形演芸大賞 銀賞
2009年 S-1バトル 月間チャンピオン(11月)
2010年 第45回上方漫才大賞 大賞
2019年 第54回上方漫才大賞 大賞
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中川家
YouTube
チャンネル

中川家チャンネル

活動期間2019年 -
登録者数114万人
総再生回数2億7125万回
YouTube Creator Awards

登録者100,000人2020年
登録者1,000,000人2023年

チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002024-03-02-00002024年3月2日時点。
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中川家(なかがわけ)は、実の兄弟の礼二による日本のお笑いコンビYouTuber司会者1992年4月結成、吉本興業東京本社(東京吉本)所属。M-1グランプリ2001初代王者。
メンバー

2人とも大阪府守口市出身。通常は名前のみか「中川家・剛」「中川家・礼二」とコンビ名・名前の組み合わせで表記されるものの、本名が使われる場合もある[1]
剛(つよし、本名:中川 剛〈なかがわ つよし〉、1970年昭和45年〉12月4日 - )(53歳)
ボケ(ネタによってツッコミ)・ネタ作り(漫才、ものまね)担当。通称「お兄ちゃん」。詳細は「中川剛 (お笑い芸人)」を参照
礼二(れいじ、本名:中川 礼二〈なかがわ れいじ〉、1972年〈昭和47年〉1月19日 - )(52歳)
ツッコミ(ネタによってボケ)・ネタ作り(コント、ものまね及びアドリブ系)担当。通称「礼二」。詳細は「中川礼二」を参照
略歴

礼二が小学校2年の頃に実父が会社から貰った優待チケットを使って
なんば花月へ親子で初めて観覧しに行き、後に剛も行くようになった。当初の礼二は行くのを嫌がっていたが、電車に乗れるのは楽しかったためついて行った。そしていつの間にか兄弟揃って漫才にどっぷりハマり、花月の最前列で舞台へ釘付けになるほどファンとなった。礼二の初デートはうめだ花月だった。当時の礼二がファンだったのは太平サブロー・シローで、初めて観た漫才は奇しくも兄弟浪曲漫才東洋朝日丸・日出丸であった。

共に大阪の守口市立梶小学校梶中学校卒業。ちなみに松竹芸能増田英彦ますだおかだ)は剛の小中学校の1年先輩にあたる[注 1]。また、桂三度の実弟は礼二と同級生で自宅にも行ったことがある。

その後、剛は大阪府立守口東高等学校を卒業。一方で礼二は近畿情報高等専修学校を卒業。礼二が在籍していた当時は向陽台高等学校の提携学校だったため、向陽台高等学校と近畿情報高等専修学校で2つの卒業資格を持つ。

それぞれ卒業後はサラリーマンとして勤めていたが、剛が礼二を誘ってNSC大阪校に11期生として入学。在学中にも漫才の実力を認められ、当時としては異例の在学中に『オールザッツ漫才』(毎日放送)へ「中川兄弟」として出演。NSCでのネタ見せ中には彼ら見たさに、教室の後ろの方に多くの芸人が観覧しようと見届けるほどの人気を誇った。

1993年心斎橋筋2丁目劇場で初舞台を踏む。

1996年1月、第17回ABCお笑い新人グランプリにて最優秀新人賞を受賞。その後、関西ローカル番組『すんげー!Best10』(朝日放送テレビ)などで人気を博す。

1997年、剛がパニック障害を患う。人ごみに入ると呼吸を忘れてしまうほどの重症で、当時の電車移動では礼二が1駅毎に剛を下車させつつ深呼吸をさせて落ち着かせるほどであった。剛のパニック障害のため通常の仕事をこなすのも困難と化し、多数持っていたレギュラー番組がKBS京都のラジオ1本のみになってしまうなど、不遇の時期を過ごした。その後に剛は医学的治療や認知行動療法を受け、パニック障害から寛解している。

関西以外で知られるようになったのは、2000年頃に出演した『明石家マンション物語』(フジテレビ)がきっかけ。オーディション企画のコーナー「大部屋」で注目され、準レギュラーでの出演に至った。また、『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)では10戦9勝という高いOA率を誇った。

2001年末、記念すべき初回のM-1グランプリで決勝進出。結成9年での出場だったが、当時は参加資格が「コンビ結成10年未満」だったため、最初で最後のチャンスでもあった。大本命の中でトップバッターというプレッシャーの中、審査員からまんべんなく高得点を受け、暫定1位を維持したまま最終決戦に進出。ハリガネロックを6対1で破り、初代王者となった。『M-1グランプリ2023』で令和ロマンが優勝するまでは唯一トップバッターで優勝したコンビだった。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}M-1の前後[いつ?]、本格的に東京進出を果たす。同年代の芸人はbaseよしもとに所属していたが、中川家、メッセンジャー海原やすよ ともこの3組はbaseに所属せず活動していた。

2002年の第37回上方漫才大賞では、本来なら奨励賞を受賞することが決まっていたが、「M-1で優勝したコンビが2位に相当する賞を受賞するのはM-1を否定することになる」という吉本の意向により辞退(欠員補充はなし)。同年に受賞したのは、奇しくも後のM-1で優勝した、ますだおかだ(大賞)、フットボールアワー(優秀新人賞)、ブラックマヨネーズ(新人賞)であった。

2009年、『ものまねグランプリ』(日本テレビ)でものまね界の重鎮である山寺宏一ホリを破り、初代王者になった[2]


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