中川 善之助人物情報
生誕 (1897-11-18) 1897年11月18日
日本・東京府神田
死没1975年3月20日(1975-03-20)(77歳)
日本・東京都台東区
出身校東京帝国大学
学問
研究分野法学(民法学)
研究機関東北大学、金沢大学
テンプレートを表示
中川 善之助(なかがわ ぜんのすけ、1897年〈明治30年〉11月18日 - 1975年〈昭和50年〉3月20日 )は、日本の法学者。東北大学名誉教授、金沢大学名誉教授。正三位勲一等。日本の家族法の権威である。東北大学の中善並木。大学祭に協力した中川に感謝して学生が名付けた(2006年4月) 金沢第一中学校、第四高等学校を経て、東京帝国大学進学。1921年、東京帝国大学法学部卒業。穂積重遠門下。 1922年9月、東北帝国大学法文学部助教授(民法学第一講座)。1927年、東北帝国大学法文学部教授。 1940年、第2代仙台法経専門学校校長。以後、死去するまで同校校長を務める。 1961年、東北大学定年退官。東北大学名誉教授。同年、学習院大学政経学部教授 1967年、金沢大学学長。1973年、金沢大学退官。金沢大学名誉教授。 1975年、仙台法経専門学校の学校長として卒業式に向かう途上、上野駅で倒れ死去[1]。 特に家族法分野での実績に優れる。旧来の家制度の解体に尽力し、現代家族法の父と称される。 財産法における法律行為に対する概念として身分行為を提唱し、独自の身分法学を確立。 1946年には我妻栄と共に臨時法制調査会委員として民法改正事業に従事した。 その他多数。
経歴
研究
社会活動
1960年に宮城県児童福祉審議会委員長を務めていたが、宮城県の青少年条例の制定に反対し、宮城県が青少年条例を制定した際に、審議会に辞表を提出した[2]。
この件に関し、朝日新聞1960年4月12日(夕刊)で、中川教授は、「青少年問題は社会的、政治的に実質的な手が打たれなければ解決しない。うわっつらのものだけを条例でしばってもなんにもならない。現に(青少年条例を)制定した県の統計でも、その後少年犯罪はちっとも減っていないではないか。いかつい条例を作ることは、むしろ若者を反発させ、逆効果だ。・・・実際家は青少年対策に自信を失い、おぼれる者はワラをもつかむ気持ちで条例をほしがるのだろう。しかし、実際には、ワラにもならない。」と述べている。
著書
『民法』
『家族法』
『親族法』(青林書院、1960年)
『家族法研究の諸問題』(勁草書房、1969)
『民法風土記』(日本評論社、1965年/講談社〈講談社学術文庫〉、2001年)
『相続法 第四版』泉久雄共著(有斐閣〈法律学全集24〉、2000年)
門下生
森泉章(青山学院大学名誉教授)
島津一郎(一橋大学名誉教授)
泉久雄(専修大学名誉教授)
山畠正男(北海道大学名誉教授)
深谷松男(金沢大学名誉教授)
栄典
東北大学名誉教授
金沢大学名誉教授
日本学士院会員
正三位
勲一等瑞宝章受章
銀杯一組
家族・親族
次女は化学者・坪井正道(地球科学者で文化功労者の坪井誠太郎の長男)に嫁いだ[3]。
脚注[脚注の使い方]^ a b 内田貴『民法IV 補訂版 親族・相続』(東京大学出版会、2004年)4頁、 ⇒林屋禮二「中川先生と仙台法経専門学校」