中川吉造
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中川 吉造(なかがわ よしぞう[注釈 1]1871年5月24日明治4年4月6日[1][2][3][4] - 1942年昭和17年)8月1日[1][2][3])は、明治から昭和時代の土木技術者内務技監
経歴・人物

中川吉太郎の弟として大和国葛下郡高田村(現・奈良県大和高田市)に生まれ、1913年(大正2年)分家する[2][4][5]1896年(明治29年)[注釈 2]東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業後、内務省に入省し、第1区土木監督署附となり[1][2][3][4][5]利根川改修の調査に当たる[6]

1897年(明治30年)土木監督署技師に転じ、翌年、関宿工営所主任として利根川治水工事に関与[3][4][5]1905年(明治38年)内務技師に進み、東京土木出張所技師となる[1][3][4][5]1910年(明治43年)から一年間、渡欧し、ドナウ川の鉄門などを視察[1][2][3]。帰国後の1919年大正8年)東京第二土木出張所長を経て、1923年(大正12年)東京土木出張所長に発令され、1926年(大正15年)工事主任として難航していた利根川の改修工事を完成させた[1][2][3][5]

1928年(昭和3年)内務技監となり、1934年(昭和9年)退官[1][2][3]。郷里の上水道敷設や河川改修にも尽力した[1][2]。ほか、1930年(昭和5年)土木学会第18代会長、港湾協会、河川協会、道路改良会等の副会長、土木学会用語調査委員長、大堰堤国際委員会日本国内委員会委員長、朝鮮総監府治水調査委員会委員など要職を歴任した[3]1939年(昭和14年)10月26日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[7]

約40年間の終始一貫した利根川治水の功績により近藤仙太郎についで「利根川の主」と称されている[6]。また、「利根川の五博士」のひとりでもある[8]
著作

『水陸特に港湾の基準面に就て』内務省東京土木出張所、1928年。

『日本最古の閘門に就て』内務省東京土木出張所、1928年。

親族

妻:中川チツル(鉄道官僚・
飯田俊徳の長女)[4][5]

栄典

1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[9]


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