中川亜紀子
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なかがわ あきこ
中川 亜紀子
プロフィール
本名中川 亜紀子
愛称あっこ、なこ、社長など[注 1]
性別女性
出身地 日本北海道札幌市[1]
生年月日 (1973-12-01) 1973年12月1日(50歳)
血液型O型[2][3]
身長152 cm[3]
職業声優
事務所コトリボイス[1]
配偶者和田薫(2002年 ‐ )
公式サイト中川亜紀子|コトリボイス
活動
活動期間1994年 -
デビュー作花束の少女、シビル、オペレーター(『マクロス7』)[4]
声優テンプレート | プロジェクト | カテゴリ

中川 亜紀子(なかがわ あきこ、1973年12月1日[2][5] - )は、日本女性声優コトリボイス所属[1]アミューズメントメディア総合学院声優学科卒業[6]北海道札幌市出身[1]。夫は作曲家和田薫
来歴

北海道札幌市に生を受ける。小学校3年生の時に青森県青森市に引っ越し、青森明の星高等学校を卒業するまで在住。幼いころからみたアニメ特撮[7]、中学生時代に始めた演劇の影響で声優を志し、大学進学を機に上京。上京の際の進路相談では、教師、両親からの反対に会うも、まず担任の教師を説得して協力を仰ぎ、その後、2人で粘り強く1年かけて両親と交渉[注 2]。最終的には両親も、演劇をずっと頑張ってきた姿を知っているので承諾する[8]

専修大学法学部二部に在学中の、1994年に『マクロス7』で声優デビューを果たす。なお、大学は声優業をこなしつつ4年間で卒業[注 3]アニラジ番組のラジオパーソナリティとしても活躍し、『金田一少年の事件簿[注 4]、『フォーチュン・クエストL[注 5]などで声優としての地位を築く。トルバドール音楽事務所に所属後、エクセル、フリーを経て、東京俳優生活協同組合に所属。2017年3月末日、再びフリーとなり、2020年4月よりコトリボイスに所属[10]

2002年に作曲家の和田薫結婚[11]

小泉理奈・小谷伸子(現:nobuko)・山口克子と、声優ガールズバンドLAMUSE」(ラミューズ)を結成していたことがある。当時所属していた事務所が音楽系の事務所であったことを縁に結成に至り、デビューに際しては事務所から2か月で演奏技術などを仕上げるように命じられた。解散の背景には音楽性の違いや不仲というものはなく、解散後もメンバーとは時々会っていた。後に『けいおん!』がヒットした時にはLAMUSEのメンバーたちと「私たち、早すぎたね」「先駆けすぎたよね」というような話はしたという[12]
人物像

座右の銘は、「汝の日常を愛せよ」。
デビュー前

小学校では音楽部(器楽部との表記もある)で木琴担当。中学ではソフトボール部を辞めたあと、テニス部と演劇部をかけもち入部。これが演劇との出会いとなり、以後芝居に魅せられていく。高校は県大会に10年以上連続出場している演劇の名門校で、中川が高2の時には10数年ぶりに東北大会まで進出した。この時、生まれて初めてうれし涙を流したという。『銀河鉄道の夜』をモチーフにした〈大人になれない子供たちのために〉というサブタイトルがついた劇で、中川はカンパネルラを演じた[13]。大学時代は声優を目指す活動と同時に演劇同好会の旗揚げに参加し、4年間、学生演劇にも励んだ。

声優を志望したのは裏方志向からであり、2017年時点でもそれは変わらない[14]

自分の子供時代を、無愛想、引っ込み思案、人見知りと評することが多い。自分から話しかけることはまずなく、消極的で内気で何もしゃべらず、「おとなしいね」という言葉に傷ついているような子であり、授業中に皆が手を挙げているとき、一人だけ挙げていないと逆に指されそうであるため、当てられるのが嫌でおそるおそるあげていた。友達が誘いに来ても、そのまま本を読んでいて結局行かず、日曜に友達と約束して遊びにいった記憶がほとんどない。初めて文化祭で芝居をした時は「あの中川が!」「舞台の上ではしゃべれるんだね」と言われた。音楽の時間はいつも口だけを動かして歌声は出さず、カラオケも大の苦手だったが、声優デビュー後、レコーディングやライブなどで歌う回数をかさねて克服していく。歌は声優業、演劇の延長線にあるという[15]

毎朝、般若心経を唱える祖母の隣で一緒に唱えるくらい、結構な「おばあちゃん子」だった[16]。内気な子供だったが、盆踊りは大好きであった。国語の教科書を朗読することや放送委員としてマイクの前で原稿を読むことなどは楽しめた一面もあった。初恋は、小学校3年のとき。転校間際に手紙で思いを伝えた。転校後も数回手紙を出したが、それきりになった。

中学時代はとくに自分を出せなかった時期である。教師から、おとなしいことをネガティブなニュアンスで言われたことなどを両親が心配し、高校はミッション系の女子高を選択することになる。高校は自分を出せるようになった場所であり、演劇部は、居心地のいい空間をみんなで作っていた感じだという。

演劇を目指していたからこそ、がらっと違ったものを勉強しようと大学は法学部を選んだ。大学時代はパン屋、ケーキ屋、テレフォンアポインター東京ディズニーランドウェートレスなど、様々なアルバイトをこなした。ある程度決められた範囲で人に応対する接客業は好きだったという。

「声優になれるという自信はいつもあった。時には体力的にきつい思いをしながらも、演劇をずっと続けてきたことが気持ちの支えになっていた。」という談[17]がある。
養成所

中川が声優を目指して活動していた当時、声優になるための情報源はまだ乏しく、養成所選びには苦労し、色々と失敗もあったという。大手の声優事務所に自分で吹き込んだデモテープを直接送りつけてみたことや、声優の勉強を何も教えてくれないところに入ったこと等もあった。一年半自分の足で歩き回って、アニメの養成所なんだから、アニメ雑誌を探せばいいのではないかと気づき、以前に愛読していた『アニメディア』と再会することになる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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