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凡例中川久持
中川久持像(個人蔵)
時代江戸時代中期
生誕安永5年11月20日(1776年12月30日)
死没寛政10年9月18日(1798年10月27日)
別名香橘[1][2]、祝之丞[2]
戒名厳祇院日新敬山[2]
墓所大分県竹田市城北町の碧雲寺
官位従五位下・修理大夫
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
藩豊後岡藩主
氏族中川氏
父母父:中川久徳、母:山本勝五郎の娘
兄弟久遠、久持、宣
子養子:久貴
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中川 久持(なかがわ ひさもち)は、豊後国岡藩の第9代藩主。 安永5年(1776年)11月20日、第8代藩主・中川久貞の次男で、当時事実上藩主の代理を行っていた「若殿」久徳の次男として生まれる[1]。なお、幕府には明和8年(1771年)誕生として届け出が行われた[1]。幕府への届け出上、実際には安永2年(1773年)生まれで姉に当たる正室所生の純姫を妹としている[1]。 久徳は祖父の世子であったが、不行跡を理由に廃嫡され、その長男である久遠が世子となっていたが早世したため、久遠の弟である久持が祖父の世子に指名され、寛政2年(1790年)の祖父の死去により家督を継いだ。同年12月1日に従五位下、修理大夫に叙任する。 寛政10年(1798年)9月18日に急死した。享年23。実子が無く、養子の久貴(柳沢保光の五男)が跡を継いだ。
略歴
系譜
父:中川久徳(1745年 - 1811年)
母:山本勝五郎
正室:無
養子
男子:中川久貴(1787年 - 1824年) - 柳沢保光の五男
脚注[脚注の使い方]
注釈
出典^ a b c d “ ⇒後の9代藩主・久持公 誕生”. 岡の母・虎姫の会. 2022年4月1日閲覧。
^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第二百六十、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.390。
参考文献
『寛政重修諸家譜』巻第二百六十
『寛政重修諸家譜 第二輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082719/205
「中川氏御年譜」
「 ⇒岡の母・虎姫の会」でデジタルテキスト化と紹介を行っている。
表
話
編
歴
中川家岡藩9代藩主 (1790年 - 1798年)
中川秀成1594-1612
中川久盛1612-1651
中川久清1651-1666
中川久恒1666-1695
中川久通1695-1710
中川久忠1710-1742
中川久慶1742-1743
中川久貞1743-1790
中川久持1790-1798
中川久貴1798-1815
中川久教1815-1840
中川久昭1840-1869
中川久成1869-1871
廃藩置県