中島輝士
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中島 輝士京都先端科学大学硬式野球部 監督 #50
統一監督時代(2012年9月)
基本情報
国籍 日本
出身地佐賀県神埼郡三田川町(現:吉野ヶ里町
生年月日 (1962-07-27) 1962年7月27日(61歳)
身長
体重188 cm
92 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手一塁手三塁手
プロ入り1988年 ドラフト1位
初出場1989年4月8日
最終出場1996年10月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


柳川高等学校

プリンスホテル

日本ハムファイターズ (1989 - 1995)

近鉄バファローズ (1996 - 1998)

監督・コーチ歴


大阪近鉄バファローズ (1999)

北海道日本ハムファイターズ (2008 - 2009)

統一セブンイレブン・ライオンズ (2011 - 2013)

徳島インディゴソックス (2014 - 2016)

ハンファ・イーグルス (2017)

京都先端科学大学

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オリンピック
男子 野球
1988野球

中島 輝士(なかじま てるし、1962年7月27日 - )は、佐賀県神埼郡三田川町(現:吉野ヶ里町)出身の元プロ野球選手外野手内野手)、プロ野球コーチプロ野球監督

ソウルオリンピック野球の銀メダリスト。
経歴
アマチュア時代

佐賀商投手だった父の影響で、3歳から野球ボールで遊んでいた[1]。三田川中学では県大会で準優勝し、1978年に柳川商業高校(在学時に柳川高校に名称変更)に入学[1]。野球部の同期に高杢禎彦(元チェッカーズ)がおり、後々まで交流が続いている[2]。投手を務めて1年秋の神宮大会を制し、全国的に知られるようになった[1]

連日200球の投げ込みで制球力が向上し、2年秋の県大会および九州大会では9試合に登板して5失点のみ、5完封、100奪三振、ノーヒット・ノーラン2回という好投を見せて翌年春の選抜大会出場に貢献した[3]。本大会では2回戦で尼崎北に敗れたが、長身からネッシーをもじって「テルシー」と呼ばれ、人気を博した[1]同年のドラフト会議前には8球団が上位での指名を検討したが、前年に父が亡くなっていたことから、安定した社会人野球へ進むことを母が願い、プリンスホテルに入社した[4]

1983年に右肩鎖関節下の血行障害を発症し、4ヶ月の療養の末に投手を断念して1984年から野手に転向した[5][6]指名打者制の社会人では全く打撃練習をしていなかったが、毎日1,000回はバットを振り、1986年の春頃からバッティングに手応えを感じるようになった[7]

1987年アジア選手権兼ソウル五輪予選では日本代表の4番を務め、打率.714、4本塁打、14打点の成績で大会三冠王となり、チームも同五輪への出場権を獲得した[8]


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