中島貞夫
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物理学者の「中嶋貞雄」とは別人です。

なかじま さだお
中島 貞夫
映画評論』1967年2月号より
生年月日 (1934-08-08) 1934年8月8日
没年月日 (2023-06-11) 2023年6月11日(88歳没)
出生地 日本千葉県東金市
死没地 日本京都府京都市
職業映画監督演出家脚本家作詞家
ジャンル映画テレビドラマ

 受賞
日本アカデミー賞


会長功労賞

2020年

その他の賞
日本映画監督協会新人賞
1966年893愚連隊毎日映画コンクール
特別賞
2022年

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中島 貞夫(なかじま さだお、1934年昭和9年)8月8日 - 2023年令和5年)6月11日[1])は、日本映画監督演出家脚本家作詞家
略歴

1934年昭和9年) - 千葉県東金市にて出生[2]

1944年(昭和19年) - 10歳の時に父親が戦死。

1954年(昭和29年) - 東京都立日比谷高等学校卒業。

1959年(昭和34年) - 東京大学文学部卒業[2]。在学中は倉本聰村木良彦らとギリシア悲劇研究会を設立し、日比谷野外音楽堂で公演を開き、大成功を収めた。

大学卒業後、東映に入社。「お前、ギリ研か。ギリシア悲劇は時代劇や。ほな、京都行け。」と会社に言われ、東映京都撮影所配属が決定した。助監督時代はマキノ雅弘沢島忠田坂具隆今井正らに師事する。マキノ雅弘門下の先輩、脚本家笠原和夫・監督深作欣二は親友で、後に数多くの作品で、コラボレートしている。

1964年(昭和39年) - 『くノ一忍法』で監督デビュー[2]

1966年(昭和41年) - 挫折しながらも「イキがったらあかん、ネチョネチョ生きるこっちゃ」と粘り強く生きるチンピラ達の逞しい青春群像を描いた『893愚連隊』で注目される。

1967年(昭和42年) - 『あゝ同期の桜』撮影後、東映を退社しフリーとなるが[3][2][4]、東映を拠点に映画製作を続ける[4]

1969年(昭和44年) - 桜田門外の変から二・二六事件までの九つの暗殺事件を描いて、日本近代史を問うた大作『日本暗殺秘録』を演出する。

1972年(昭和47年) - 孤独に生きる渡世人の姿を描いた『木枯し紋次郎』『木枯し紋次郎 関わりござんせん』を監督。

1973年(昭和48年) - 当時としては異例の海外ロケと5か月間を費やして制作した『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』を発表。本作の劇伴で流されている千葉真一の楽曲「流れ唄」の作詞も書いている。ATGで『鉄砲玉の美学』を監督。

この頃から深作欣二と共に、様式的な従来の任侠物に代わる「実録ヤクザ映画路線」を邁進する。『安藤組外伝 人斬り舎弟』(1974年)、『脱獄広島殺人囚』(1974年)、『沖縄やくざ戦争』(1976年)、『実録外伝 大阪電撃作戦』(1976年)などを監督。

1980年代には女性画家上村松園の生涯をモデルとした『序の舞』(1984年)を演出。

1987年(昭和62年) - 大阪芸術大学にて教授に就任。1997年平成9年)から同大学院教授。

1994年平成6年) - 京都市文化・芸術振興計画委員会委員。

1999年(平成11年)5月5日 - KBS京都にて『中島貞夫の邦画指定席』放送。毎週水曜日20時に主として1950年代から70年代の東映や大映などの時代劇を幅広いジャンルに渡って放映した当該番組でナビゲーターを務め、通常の作品解説だけでなく作品に関する逸話や裏話などを幅広く語った。番組は2014年3月26日、終了となった。

2004年(平成16年) - 京都映画祭総合プロデューサー。

2006年(平成18年) - 第五回京都映画祭において、牧野省三賞を受賞[2]

2008年(平成20年)7月 - KBS京都『中島貞夫とめぐる京都シネマ紀行』のナビゲーター担当。

2014年(平成26年)7月公開(京阪神は6月)の『太秦ライムライト』に、東映京都撮影所で時代劇を撮影する映画監督役として出演した。

2019年(平成31年) - 『多十郎殉愛記』で長編劇映画の監督を20年ぶりに務める。

2020年令和2年)10月 - YouTubeチャンネル『Sadao Nakajima』を開設し、特定のテーマ(役者)を軸に今だから話せる当時の裏話や思いを語った動画を複数投稿している。

2023年(令和5年)6月11日 - 夕刻に肺炎のため、京都市内の病院で死去した[5]。88歳没。

人物

映画を7本撮った後、
1967年と早い時期に東映を退社してフリーになっている[2][3]1995年に大阪大学で行われた講演で、中島は自身の企画した映画は「『くノ一忍法』『893愚連隊』『鉄砲玉の美学』『狂った野獣』『瀬降り物語』の5本」と発言している[6]


同学年で親交があったという浜村淳は、「中島監督は、僕は上から言われたものを撮る職業監督だったと言っていた」と話し、「でも、絶対に自分が、世間が面白いと思うもんを撮る、という気概があった。


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