中島町_(広島市)
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.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}日本 > 中国地方 > 広島県 > 広島市 > 中区 (広島市) > 中島町 (広島市)

中島町
町丁
レストハウス(元・大正屋呉服店) - 中島地区に唯一現存する被爆以前からの建物。
日本
都道府県 広島県
市町村 広島市
中区
人口(2018)[1]
 ? 合計664人
等時帯UTC+9 (JST)
郵便番号730-0811
市外局番082
ナンバープレート広島
原爆投下前の広島市中央部(航空写真) / 同心円の中心が爆心地であり、現在の中島町は元安川を隔てて至近距離に位置している。

中島町(なかじまちょう)は、広島市中区の中心部に位置する町であり、広島平和記念公園の所在地として知られる。中国地方九州中島は清音のなかしまと読む人名・地名が多いが、こちらはなかじまと濁音である。

この項目では主として、かつて繁華街であった中島町(旧町名は中島本町(なかじまほんまち)・材木町(ざいもくちょう)・天神町(てんじんまち / てんじんちょう)・元柳町(もとやなぎちょう)・木挽町(こびきちょう)・中島新町(なかじましんまち)の6町)の歴史について述べる。
概要と地理

中島町は元安川旧太田川(本川、ほんかわ)の分岐点に位置し、現在町域の大半(平和大通り以北)は広島平和記念公園(平和公園)となっているが、原爆投下まで広島でも有数の繁華街の一つであった。

この地区の北端に架かる相生橋は全国でも珍しいT字橋として知られている。また南は加古町、東は元安川を挟んで大手町、西は本川を挟んで本川町・猫屋町・堺町・土橋町・河原町に接する(以上、すべて中区内)。
歴史.mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}}広島の新開地発展図(『概観広島市史』1955年) / 現在の中島地区が広島築城時には陸地であったことが示されている。1644年ごろの広島の地図。元安川および「猫屋川」(旧太田川)に囲まれた洲の先端部が中島地区。地図上の中程を横断する西国街道が通り、「町人町」および寺の敷地によって占められていることが示されている。1930年頃(昭和初頭)の廣島市の地図 / この図では1928年に国泰寺町に移転した広島市役所が中島新町の旧位置のまま示されている(県庁も隣接する水主町に所在している)。また相生橋もこの時点では下手の旧橋が存在し上手の新造橋と並行しており、新しい橋から中島への連絡橋も新設される以前なので現在の形態とは異なる。被爆直前の中島地区(模型) - 奥(北側)中央のT字橋が相生橋、東の元安川、西の本川に架かるのがそれぞれ元安橋・本川橋。この2橋を結ぶ通りが中島本通で中ほどに藤井商事社屋(奥行きのある縦長の建物)が見える。手前(やや広い空地に見える)は誓願寺とその墓所で、さらにその南側が建物疎開により空地が目立っている様子が再現されている。被爆後の中島地区(模型 / 前出画像と比較されたい) - 誓願寺を始めとする木造建物は跡形もなく、中島本通沿いに東から燃料会館(現・レストハウス)、藤井商事、日本簡易火災保険支店など鉄筋建物の残骸がかろうじて残っている様子が再現されている。1945年広島市地図。米軍作成。ローマ字表記で旧町名が書かれている。この界わいはいわばお坊ちゃん育ちのお人好しがたたって急テンポの時代の波にあっさりと見捨てられて、せっかくの一等地もがた落ちになった。 ? 薄田太郎[2]
藩政期から明治期まで

中島地区は、毛利輝元による広島築城以来の町人町で、2つの川の分岐点に位置することから、藩政期には太田川上流の芸北地域と広島湾とを結ぶ水運による物産集散地となり、また西国街道山陽道)がこの地区の中ほどを横断していた(現在の中島本通)。明治期に移行してもこの界隈は広島随一の盛り場の地位を譲らず、加えて1889年の市制施行により中島新町に市役所が置かれていたため、1878年以降県庁が設置されていた隣の水主町(現・中区加古町)と併せこの近辺の地区は県政・市政の中心部としての位置を占めていた。また明治後期になると元柳町の(旧)広島銀行本店や中島本町の住友銀行広島支店など、多くの金融機関がこの地区に立地しており、元安川対岸の大手町通りと並ぶ金融街を形成していた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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