なかじま しょうえん
中島 湘煙
生誕岸田俊
(1864-01-13) 1864年1月13日
京都
死没 (1901-05-25) 1901年5月25日(37歳没)
大磯
墓地大運寺
国籍 日本
別名岸田俊子、中島湘烟
代表作主論文「同胞姉妹に告ぐ」
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中島 湘煙(なかじま しょうえん、文久3年12月5日(1864年1月13日) - 明治34年(1901年)5月25日)は、明治時代の女権拡張運動家・女性著作家である。本名は俊(しゅん)、のち俊子(としこ)に改名[1]。旧姓岸田(きしだ)[1]。湘煙・粧園と号す[1]。
土佐藩出身の神奈川県令・中島信行の後妻となり、活動を展開した。主論文は「同胞姉妹に告ぐ」[1]。遺稿集『湘烟日記』の著者名は中島 湘烟[2]。
年譜中島湘煙
1864年1月13日 - 京都の呉服商[1]に生まれる。
1877年 - 京都府女子師範学校に入学するが、間もなく病気のため退学する。
1879年 - 槙村正直・山岡鉄舟の推挙で宮中に文事御用掛として出仕し、皇后(後の昭憲皇太后)に漢学を進講する。
※出仕した時期は1878年・1880年[1]とする説もある。
1881年 - 秋に御用掛を辞め、各地を遊歴する。その際、高知で自由党員の坂崎紫瀾・宮崎夢柳を知る。
1882年
1月 - 京都に戻る。
4月 - 中島信行らの日本立憲政党の大阪での演説会で「婦女の道」の題で演説。以後1884年まで政治演説に従う。
1883年10月12日 - 滋賀県大津で「箱入娘」の題での演説の後、集会条例違反で大津警察署に拘引され[3]入獄する。
1884年
1月 - 上京。
5月 - 星亨主宰の新聞『自由燈(じゆうのともしび)』に論説を発表する。
1885年 - 中島信行とともに受洗する。
1886年 - この頃中島家に入る。巌本善治主宰の『女学雑誌』に中島湘煙の筆名で論説を発表する。自宅で塾を開く。
1887年
7月 - 翻案『善悪の岐(ふたみち)』を粧園女史の筆名で『女学雑誌』に発表。
9月頃 - 新栄女学校の和漢学科主任になる。
12月 - 保安条例により信行とともに東京を退去し、横浜に移る。
1888年
1月 - 『女学雑誌』に漢詩を発表する。
3月 - 神奈川県久良岐郡戸太町太田(現:横浜市南区南太田町)に移住。
5月頃 - フェリス和英女学校名誉教授になる。
1889年2月 - 小説『山間の名花』を『都の花』に発表する。
1892年11月 - イタリア公使になった信行とともにローマに出発する。
1893年9月 - 病気のため信行とともに帰国する。
1897年1月 - 小説『一沈一浮』を『文芸倶楽部』に発表する。
1898年11月 - 神奈川県大磯町に転居し、夫婦ともに療養する。