中島 洋平
プロフィール
リングネーム中島 洋平
ブラックめんそーれ
めんそ?れ親父
本名中島 洋平
ニックネームトゥー・ザ・ブライト
暗闇の変なおじさん
国際通りの変なおじさん
身長175cm
体重85kg
誕生日 (1985-08-22) 1985年8月22日(38歳)
出身地東京都練馬生まれ[1]
北海道函館市育ち
所属フリー
スポーツ歴テコンドー
柔道
トレーナーウルティモ・ドラゴン
デビュー2007年4月29日
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中島 洋平(なかじま ようへい、1985年8月22日 - )は、日本のプロレスラー。
経歴[ソースを編集]
デビューまで[ソースを編集]
中学2年の時にプロレス中継を見てプロレスに興味を持ち、佐々木健介対天龍源一郎戦の試合を見てプロレスに魅了された、北海道函館中部高等学校1年生の時にウルティモ・ドラゴンの自伝『素顔のマスクマン』を読み闘龍門の存在を知り、闘龍門に入門したいと思うようになる。両親(母親)は高校を卒業すれば好きにしてよいと条件付きで了承してくれた[2]。
高校入学まで格闘技の経験なし。プロレス入り前にはテコンドー、柔道(黒帯)を経験している[3]。
2004年4月、闘龍門の15期生として入門。しかし、ほどなく闘龍門MEXICOとDRAGON GATEの2派に分裂。練習生を減らすためのテストが行われテストに落選した中島は一旦、函館に帰ることとなる、この時はテストの合否に関わらずプロレスを辞めるつもりでいたとのこと。その後、DRAGON GATEを辞めた悪冠一色の菅原拓也より誘いを受けてDragondoorの立ち上げの手伝いをすることとなり、セコンド業務のために東京に通ううちにもう1度プロレスラーを目先そうと思うようになり再び上京。
2006年デビュー前であるが、大鷲プロレスでエキシビションマッチを行い、練習生のままDragondoorを経由して2007年にプロレスリングElDoradoに所属となり、メキシコへ渡る。メキシコではKAI、大和ヒロシ、佐々木大輔、江本敦子などと共に行動していた[4]。
2007年4月29日、メキシコでデビューを果たした。
めんそ?れ親父[ソースを編集]
2008年3月、日本に帰国。沖縄プロレスより「1年間修行にこないか」との誘われ、沖縄行きを決め2008年7月、沖縄プロレスに旗揚げ当初からマスクマン「めんそ?れ親父」として参戦。
5月23日、怪人ハブ男とのタッグでMWF世界タッグ王座を奪取。
2011年7月、チューバートーナメント2011で準優勝。2011年8月12日、MWF世界タッグ王座から陥落。12月、全日本プロレス沖縄大会に参戦。メキシコ時代の同期的存在のKAIと組み、やはりメキシコ時代の仲間の大和、沖縄での先輩怪人ハブ男と闘ったことによりプロレスを辞めたいという気持ちを吹き飛ばした[5]
2012年からはフリーで関東を中心に活動。みちのくプロレス、全日本プロレス、KAIENTAI-DOJO、ユニオンプロレスなどに参戦。
2014年SUSHIとのタッグ寿司親父でアジアタッグ王者に挑戦し敗北。
6月30日、鈴木鼓太郎の持つGAORA TV王座に地元函館で挑戦するも敗北。
中島洋平[ソースを編集]
7月27日、全日本プロレス後楽園ホール大会でマスクを自ら脱ぐ。その直後に、鈴木からの勧誘に答え、寿司親父を一方的に解散し、Xceedに加入する。その後しばらくの間、全日本では素顔の中島洋平として、全日本以外の団体から受けているオファーに関してはめんそ?れ親父として出場していた[6]。
2015年8月16日、SUSHIの負傷欠場による返上で空位となっていたGAORA TV チャンピオンシップをビリーケン・キッドと争う。結果は顔面蹴りで勝利し、見事に第7代GAORA TV王者となる。なお、SUSHIの欠場そのものも、自身の放った顔面蹴りによるものである。
2016年5月25日、当時全日本プロレス社長だった秋山準の要請により、「AJレンジャー」のレッドになる。
2017年8月27日に両国国技館で行われた興行の第1試合では阿部史典とのタッグで、野村卓矢と青木優也のタッグと対戦。跳び後ろ廻し蹴りからの片エビ固めで4分18秒フォール勝ち[8]。
2017年北井孝英
が運営するパーソナルトレーニングジムK.O.GYMでトレーニングの様子が取材されている[9]。