中島河太郎
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中島 河太郎
なかじま かわたろう
ヒッチコック・マガジン』1963年3月号(宝石社)
誕生1917年6月5日
日本 鹿児島県鹿児島市
死没 (1999-05-05) 1999年5月5日(81歳没)
職業評論家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴東京帝国大学文学部国文科
ジャンルミステリー文学
主な受賞歴日本推理作家協会賞(1966年)
日本ミステリー文学大賞(1998年)
親族甥:春成秀爾考古学者
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中島 河太郎(なかじま かわたろう、1917年6月5日[1] - 1999年5月5日[1])は、日本のミステリー文学評論家アンソロジスト国文学者。本名は、中嶋馨(なかじま かおる)。日本推理作家協会第7代理事長。日本ミステリー文学大賞受賞者。和洋女子大学元学長・名誉教授[2]江戸川乱歩の薫陶を受けた推理小説研究の第一人者で、推理小説に加え国文学・民俗学の書誌学者としても知られる[3]。別名に小城魚太郎[4]、石羽文彦、玉井一二三。
略歴

鹿児島県鹿児島市生まれ[5][6]鹿児島県立第一鹿児島中学校第七高等学校造士館を経て[7][8]東京帝国大学文学部国文科で中世説話文学を専攻する[9]。旧制中学時代から兄の影響で「新青年」を読み始め、探偵小説に親しむ[6][7]。また、鹿児島での学生時代は、地元出身教師の郷土史自慢の多さに辟易していた。旧制七高の学生時代に、当時新興の学問だった民俗学に取り組み始め、鹿児島民俗研究会結成に参加[10]。1942年に東京大学国文科を卒業して教師となり、神奈川県立横浜第一中学校 (旧制)を経て、東京都立第七中学校 (旧制)・東京都立墨田川高等学校の教諭をつとめる[3][5]柳田國男正宗白鳥に師事し[7]、1945年に柳田國男の説話会に参加[11]

1947年に探偵新聞に連載した「日本推理小説略史」で江戸川乱歩に注目され、ミステリー小説評論家としての本格的な活動を開始する[3]。1955年、まだ書き下ろし小説を募集していなかった第1回江戸川乱歩賞を、外国・日本推理小説をまとめ評論した『探偵小説辞典』で受賞した[1][3][5]。1965年、『日本推理小説史 第一巻』が第18回日本推理作家協会賞の候補[5]。1966年、第19回日本推理作家協会賞を『推理小説展望』で受賞[1][3][5]。1985年から2期4年間日本推理作家協会理事長を務める[5]。1997年、日本初の推理小説専門図書館であるミステリー文学資料館の初代館長に就任[3][5]

国文学者としては、1966年に和洋女子大学および同短期大学部の国文学科講師に着任し、1968年に助教授に就任[11]。1970年に教授に昇任[1][2]。1980年、国文学科の属する文家政学部の学部長を兼任[11]。1991年同大学および短期大学の学長に就任し[1][2]、1996年まで務めて[3]、名誉教授授与[2]。民俗学にも精通し、正宗白鳥や柳田國男の研究者として多大な功績を残した[3]

1988年、勲四等旭日小綬章受章[3]。1998年度に、わが国のミステリー文学の発展に著しく寄与した人物に贈られる日本ミステリー文学大賞を受賞(第2回)[5][12]
逸話

旧制中学教師時代は、まだ若かったため生徒から「あんちゃん」と呼ばれ、怒ると生徒を並べて「ホイホイ」と言いつつ後ろから尻を蹴り上げることで知られていた[13]。戦時中に授業を受けた半藤一利からは「軍事教練をさぼると思いっきり殴る軍国教師だった」と批判されている[14]。その他、佐野眞一も墨田川高等学校での教え子のひとりである[14]。佐野によると、当時の中島は「由比正雪のような総髪をし、達意の文章、特に古典の名文を読むときは音吐朗々、独特の髪形とも相俟って、書かれた世界に引きずりこむ魔力めいたものがあ」り、1964年5月、『宝石』廃刊の時は憔悴した表情で「今日は大変悲しいことがあったので、授業はできません」と発言した、という[15]
著作

『推理小説ノート』(
社会思想研究会出版部現代教養文庫) 1960

『日本推理小説史 第1巻』(桃源社) 1964。新版・東京創元社 1993


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