中島宏之
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中島博之」、「中島博征」、「中嶋博幸」、「中嶋博行」、あるいは「中島啓之」とは別人です。

「中島裕之」はこの項目へ転送されています。本名が「中島裕之」の作家については「中島らも」をご覧ください。

中島 宏之(中島 裕之)中日ドラゴンズ #9
読売ジャイアンツ時代
(2021年6月10日、京セラドーム大阪にて)
基本情報
国籍 日本
出身地兵庫県伊丹市
生年月日 (1982-07-31) 1982年7月31日(41歳)
身長
体重180 cm
90 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション遊撃手一塁手三塁手
プロ入り2000年 ドラフト5位
初出場2002年10月6日
年俸2000万円+出来高(2024年)[1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


兵庫県立伊丹北高等学校

西武ライオンズ
埼玉西武ライオンズ
(2001 - 2012)

オリックス・バファローズ (2015 - 2018)

読売ジャイアンツ (2019 - 2023)

中日ドラゴンズ (2024 - )

国際大会
代表チーム 日本
五輪2008年
WBC2009年
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

獲得メダル
日本
ワールド・ベースボール・クラシック
2009

中島 宏之(なかじま ひろゆき、本名・旧登録名:中島 裕之〈読み同じ〉、1982年7月31日 - )は、兵庫県伊丹市出身のプロ野球選手内野手)。右投右打。中日ドラゴンズ所属。

愛称は「ナカジ」[2]。妻はファッションモデル相沢紗世[3]鳥谷敬に次ぐNPB史上2人目・パ・リーグでは唯一の、遊撃手としてのシーズン100打点達成者。
経歴
プロ入り前

出生時は右肩が母体内で引っかかるなどの難産で、担当医からは「右肩に何らかの障害が残る可能性がある」と指摘され、乳児の頃から柔らかいゴム製のボールを半ば強制的に握らされていたという[4]伊丹市立桜台小学校時代は投手として幼馴染みの山崎勝己バッテリーを組み、全国大会に出場。伊丹市立天王寺川中学校では宝塚シニアに所属し、高校進学時には県外からもスカウトされたが、地元の報徳学園高校を山崎と共に受験。山崎は合格したものの、中島は合格に至らなかったため、兵庫県立伊丹北高校に進学[5][6]。シニアでの厳しい練習から野球に嫌気が差していたこともあり、強豪校とは違う練習環境の中で力を伸ばしていった。後に本人は「報徳に入学していたら野球を続けていなかったと思う」と述べている[5]

伊丹北高校への進学後は、1年時からレギュラーに定着。兵庫大会では、1年夏に右翼手、2年夏に1番打者先発投手に転向した3年夏には「1番・投手」として出場した。在学中のチーム成績は2年夏の兵庫県大会での16強が最高であったが、中島自身は対外試合で通算43本塁打を放ったことから、西武ライオンズスカウト陣の目に留まった。

2000年度ドラフト会議で、西武から内野手として5巡目指名を受け、契約金4000万円、年俸600万円(金額は推定)という条件で入団した[7]。無名校出身ながら高卒で指名された理由について、当時同校の監督だった後藤博雄は「真面目な性格が下積みにも耐えられるとスカウトが評価したのではないか」と語っている[8]。入団当初の背番号は56。
西武時代

2001年は、チームの正遊撃手だった松井稼頭央メジャーリーグへの挑戦を志向していたことを背景に、遊撃手へコンバート[9]。しかし、高校時代まで経験のなかったポジションであったことから、30試合に出場したイースタン・リーグの公式戦では7失策、2安打打率.105にとどまる。

2002年は、イースタン・リーグ公式戦でただ1人全100試合に出場。リーグの規定打席へ到達しリーグ最多の安打、得点、犠飛死球を記録した。併殺打10本、25失策もリーグ最多で、リーグ2位の打率.299、チーム2位の11本塁打、リーグ4位の47打点となりファームの優秀選手賞に選出。10月6日の対日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)に「5番・指名打者」としてスタメンで一軍デビューし、2回表に金村曉から一軍での初安打など、一軍公式戦にも4試合へ出場した。

2003年は、一軍公式戦44試合に出場し、一軍での初打点、初本塁打、初盗塁を記録。イースタン・リーグ公式戦では、規定打席に達しなかったものの、チームトップの打率.306、チーム2位の13本塁打。

2004年は、背番号を3へ変更。前年までの正遊撃手だった松井が海外FA権の行使によってニューヨーク・メッツへ移籍したことを背景に、一軍公式戦の開幕から「7番・遊撃手」としてスタメンに抜擢。開幕スタメンを伊東勤監督に進言したのは土井正博ヘッド兼打撃コーチである[10]。その後も「正遊撃手は荷が重過ぎる」との声が上がる中スタメンで起用され、オールスターゲームにも監督推薦で初出場した。同年のパシフィック・リーグでは唯一フルイニング出場し、打率.287(リーグ19位)、27本塁打(リーグ8位)、90打点(リーグ7位)、18盗塁(リーグ4位)を記録。

2005年イレギュラーバウンドした打球を顔面に受けて頬骨骨折し、戦線離脱。復帰後はレギュラーに戻り規定打席に到達して打率.274(リーグ19位)、11盗塁(リーグ7位)を記録したが、リーグ3位の17併殺打、遊撃手としてリーグ最多の10失策を記録。

2006年は開幕から3番打者を務め、オールスターゲームにも選出され、一時首位打者争いに加わるなどチームの首位争いに貢献した。7月30日の楽天戦で山村宏樹から死球を受け、左第4中手骨を骨折したが予定より早い9月12日に復帰した。打率.306で初めて3割に到達した。守備では2年連続で遊撃手部門リーグ最多の16失策を記録し、同年オフの契約更改では球団初となる守備での出来高払いが設定された。

2007年も開幕から3番で起用され、オールスターゲームに3度目の出場を果たした。両リーグ通じて唯一の9試合連続打点を記録するなど、リーグ5位の打率.300、同3位の160安打、チーム2位の74打点を記録したが、リーグ3位の134三振とレギュラー定着以降減少していた三振数が倍増した。守備でもリーグ2位、遊撃手としては3年連続リーグ最多の20失策を記録。

2008年オールスターゲームに4度目の出場。共に同じ遊撃手の川ア宗則西岡剛が選出されたこともあり、オールスターゲームでは三塁手を務めたが、悪送球による失策を記録した。4年ぶりに20本塁打を記録とリーグ優勝に貢献した。前半戦終了時にリーグトップだった打率は後半戦に入って徐々に落ちていったが、楽天のリック・ショートと首位打者を争い、楽天との最終戦までもつれ込んだ。結果は7毛差で及ばなかったが自己最高の打率.331を記録。最終戦後には敬遠されなかったことについて「勝負してくれて嬉しかった」と語った[11]。シーズン成績はチームトップの55四球を選び、それぞれ自己最高を更新する出塁率.410、25盗塁で、初タイトルとなる最高出塁率を獲得した。遊撃守備ではリーグ2位の12失策を記録したものの、守備率は遊撃手部門2位を記録して送球ミスも減り、ゴールデングラブ賞ベストナインを初受賞した。同年、かつて西武で背番号「3」を着けていた清原が引退を表明し、オリックス・バファローズとの最終戦の日にユニフォームの交換を行なった。巨人との日本シリーズでは第1戦と第2戦で2試合連続本塁打を放つ。第5戦では怪我で途中交代したものの、第6戦以降も満身創痍で先発出場し続け7戦全てで安打を記録し日本一に貢献、優秀選手に選ばれた。オフの契約更改で年俸2億円に到達。「野球をやっている以上、いろんな国の選手がいる中でやってみたいという夢はあります。メジャーに行けるような選手になりたい」と将来的なメジャーリーグ挑戦志向を明かした[12]西武時代(2009年)

2009年は開幕から25試合本塁打がなかったが、6月21日の東京ヤクルトスワローズ戦で通算100本塁打を達成。オールスターゲームに選手間投票によって選出され5度目の出場。第2戦でファウルボールを観客席に突っ込んで捕球するなどしてベストプレー賞を受賞し、「守備で賞を頂けたことがうれしい」とコメント。主に3番遊撃手としてリーグで唯一全試合フルイニング出場してシーズン後半には故障した中村剛也の代わりに4番打者も経験し、2年連続3割20本塁打20盗塁(史上5人目)、自己最多の92打点、173安打で自身初の最多安打、出塁率.398で2年連続となる最高出塁率のタイトルを獲得し、2年連続でベストナインも受賞。遊撃守備では初めて守備率.980台を記録。

2010年は一時打率が4割を越えたが、シーズン終盤はチャンスでの併殺打が増えた。同年オフにはポスティングシステムを利用したメジャーリーグ挑戦を球団側に訴えたが、交渉窓口となった球団本部長(当時)の前田康介が「話し合いの結果、残留で決まった」と報道陣に対して一方的に発表したことから[13]、中島は「勝手に発表された。『分かった』としか言われていない」と、事実と異なる説明をされたとして球団に対する不信感を露にした[14]。その後、監督の渡辺久信の仲裁により球団側と再度話し合い、残留することが正式に発表された。キャプテンマークを付けた中島(2011年)

2011年はこの年から導入された統一球の影響もあり、5月までは打率.266、3本塁打、OPS.771と調子が上向かなかったが、6月から調子を上げ、6月から9月まで打率.312、9本塁打、OPS.819と復調。7月11日のオリックス戦では警告試合を引き起こしている。事の発端は、6回裏に高宮和也の2球目が中島の背中に直撃。これに中島が激昂してマウンドへ歩み寄ると、両チームがベンチに飛び出し、乱闘寸前の雰囲気となった。試合は9対1で勝ったものの「(オリックスは)しょうもないチーム」、「ことしのうちに、必ず試合中にやり返しますよ」と発言した[15]


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