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なかじま たけひろ中島 丈博
プロフィール
誕生日 (1935-11-12) 1935年11月12日(88歳)
出身地 日本・京都府
主な作品
テレビドラマ『わが美わしの友』
『事件』
『草燃える』
『家族ゲーム』
『春の波涛』
『炎立つ』
『放浪記』
『失楽園』
『元禄繚乱』
『牡丹と薔薇』
『非婚同盟』
『さくら心中』
『赤い糸の女』
『天国の恋』
受賞
#主な受賞 を参照
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中島 丈博(なかじま たけひろ[1]、1935年〈昭和10年〉11月12日 - )は、日本の脚本家・小説家・映画監督。京都府生まれ、高知県中村市(現・四万十市)育ち。 父は日本画家の中島敬朝。京都で生まれ、太平洋戦争の影響で1945年10歳のとき、高知県中村市へ疎開[1]。そこでプライバシーが筒抜けな地元住民の生活に衝撃を受け、それが作風にも影響を与えたと語っている[1]。この頃のことは『野蛮な詩』(疎開後の小学生時代)、『郷愁』(中学時代)、『祭りの準備』(20代、上京まで)で小説・映画化している[1]。1954年に高知県立中村高等学校を卒業[1]。家はずっと貧乏で、父が胃潰瘍で入院して金がかかり大学進学を断念し[1]、高知相互銀行に就職し三年ほど勤務する[1]。その頃からシナリオを書き始め、映画雑誌のシナリオ懸賞に応募したりしていたが、シナリオ作家協会のシナリオ研究所(現:シナリオ講座)の発足を知ると退職して両親の猛反対を押し切り1956年に上京し[1]、シナリオ研究所に第1期生として入所[1]。 レストランのコック見習いやキャバレーのボーイをして働きながらシナリオ研究所修了後、仕事を6日休んで徹夜も辞さずに書いたシナリオを知り合いのツテで中平康監督に見せるが、「あなたにはおよそ向かない。クニに帰りなさい」と言われ、愕然とする[2]。この作家修業時代のことは『独身送別会』としてドラマ化している。 しかし1959年に同人誌に発表したシナリオが脚本家の橋本忍に認められ(橋本が弟子を取ることは珍しく、数人しかいない)1960年から[1]、約1年間、直接創作指導を受ける[1]。同時期に国弘威雄も来ていた[1]。同人誌に発表したシナリオが1961年に『南の風と波』の題で映画化され(橋本忍監督)、脚本家デビュー[1]。 同年、日活脚本部と契約するが[1]、当時の日活のアクション路線に馴染めず自身の企画がなかなか通らず、日活の業績悪化が進んだ1970年に解雇される。しかし 日活ロマンポルノ時代になると1972年から1977年までフリーの脚本家として神代辰巳、田中登、小沼勝、西村昭五郎などの監督作を13本執筆し、この頃に1990年代後半から2000年代前半のドロドロ愛憎劇の昼ドラの原型を作った。 その一方で1973年にATGで発表した『津軽じょんがら節』がキネマ旬報ベストテン1位、1975年発表の自伝的作品『祭りの準備』がキネマ旬報脚本賞、ベストテン2位(劇映画1位)と高く評価される。そして連続ドラマも執筆するようになる。。1978年のドラマ人間模様『事件』(NHK)の脚本(大岡昇平原作)が高い評価を受けた(続編の執筆依頼もあったが辞退している[3])。ちなみにこの続編はその後全くのオリジナルドラマとして、早坂暁によって新たに5本書かれ、事件シリーズとして全てNHKで放送された。翌1979年から大河ドラマの脚本を担当するようになり[4]、大河ドラマでは最多となる4作品(『草燃える』〈1979年〉、『春の波涛』〈1985年〉、『炎立つ』〈1993年〉、『元禄繚乱』〈1999年〉)を執筆。 1988年、『祭りの準備』の前日談とも言える中学時代を描いた映画『郷愁』で脚本と初監督。 1989年、NHKドラマ『恋愛模様』『海照らし』『幸福な市民』[5]で第8回向田邦子賞を受賞。 1992年、前任者の脚本がうまく行かず、突然依頼を受けたNHK 金曜時代劇『腕におぼえあり』がヒットし、1年間に異例とも言える3シリーズ・35話が制作され、放送終了7年後の2000年にも同じ中島脚本、村上弘明主演で舞台化、2003年にはDVD発売もされた。この番組がNHKの時代劇にもたらした影響は大きく、以降も同局の『木曜時代劇』枠において数々の同じ藤沢周平原作の番組が制作される。 1992年、自らの製作・監督・脚本でゲイのカップルと若い女性の交流を描いた映画『おこげ』を発表する。 1993年、大河ドラマ『炎立つ』の原作者・高橋克彦の原作執筆の遅さから、高橋やNHKと対立。撮影スケジュールも大幅にずれ、出演者の一人である北大路欣也が降板するなどのトラブルに発展。そして全35話のうち、第三部の21話以降は中島の主導でストーリー・人物が構成されることになった。高橋・NHK側はペナルティとして200万円を中島に支払った[3]。 1997年、連続ドラマ『失楽園』が平均視聴率20.7%、最終回27.3%の大ヒットを記録。 1999年、大河ドラマ『元禄繚乱』の打ち上げの席で、大石内蔵助役で主演の中村勘九郎の演技を「目が死んでいる」と非難。勘九郎とつかみ合いになる。徳川綱吉役で出演していた萩原健一は、収録現場で勘九郎が脚本のセリフを自己流に言い換えていたので、中島の怒りを買ったのではないかと推測している[6]。 2000年に『祭りの準備』の主人公タテオの小学生時代を描いた初の書き下ろし小説『野蛮な詩』を発表。2001年から2006年まで月刊誌『シナリオ』(シナリオ作家協会)に幼少期から50代までを綴った自伝『祭りは終らない』(全50回)を連載。 1995年からは主な執筆の場を東海テレビの昼ドラ(フジテレビ系)に移す。「究極のフィクション」と自身が語るドロドロ愛憎劇を独特の感性で描く手法は『真夏の薔薇』から注目されるようになり、後に『真珠夫人』『牡丹と薔薇』『偽りの花園』など2013年の『天国の恋』まで11作を執筆。『真珠夫人』『牡丹と薔薇』『偽りの花園』『さくら心中』『赤い糸の女』はDVD発売され、特に『真珠夫人』は2002年度の新語・流行語大賞受賞、総集編がゴールデンタイムで放送されるなどの大きな反響があり、その次に執筆した『牡丹と薔薇』は昼ドラにもかかわらず最高視聴率13.8%、ゴールデンで放送されたスペシャルは視聴率18.8%を記録し大ヒット。この昼ドラ枠はファミリードラマを編成することも多かったが、『真珠夫人』『牡丹と薔薇』、中島の弟子の田部俊行が執筆した『冬の輪舞』(2005年)がヒットしたことによって「東海テレビの昼ドラと言えばドロドロ愛憎劇」という印象が強くなったため、2004年後半 - 2009年前半までの5年間はドロドロ愛憎劇しか編成しなかった。 2003年に『中島丈博シナリオ選集 第一期』全三巻が刊行された。大河ドラマや昼ドラを収録し作家の全体像が把握できる第二期も刊行予定である。 2006年、ドラマ『愛の流刑地』の脚本を執筆していたが降板。2007年に月刊誌『シナリオ』でその顛末を記し、井坂聡監督らを痛烈に批判した[7]。井坂は同誌に反論を寄せ、中島はそれに再反論した[7]。脚本家・映画監督の新藤兼人は双方の発言を検分して、「中島くんが怒るのも無理ないね」と、井坂の主張には問題があるとしている[7]。 2010年2月、自伝『シナリオ無頼』(中公新書)を発表。 激しい情念を表現する傾向がある。大河ドラマ『草燃える』では、身分を問わずほぼすべての登場人物が弱さや醜さを抱えており、中島は「テレビのブラウン管から歴史を引っ張り出す。現代の茶の間で見てる人たちの身近に歴史というもの、そこにいる人間を引っ張り出してみせる。」とプロデューサーに話したという[8]。 『真珠夫人』以降の昼ドラマでは、主婦の怒りと狂気を表現するために珍料理(フジテレビ『私のバカせまい史』においては「愛憎グルメ」と紹介)を毎回登場させ、夫に食べさせる場面を挿入している。「たわしコロッケ」「財布ステーキ」「草履カツレツ」「五寸釘入り玄米パン」「携帯ケーキ」「愛の歴史ケーキ」がお茶の間に衝撃を与える[9]。 1991年に自身のシナリオのベスト3を質問され、『祭りの準備』『草燃える』『青春戯画集』を挙げる[10]。2004年の時点でのベスト3では『青春戯画集』が外され、『あ、春』が加えられた[11]。 2003年に『真珠夫人』のヒットを記念して自身のキャリアを振り返るインタビューが行われ、上記以外で自身が気に入っている作品に『おれの義姉さん』『火の路』『寺島町奇譚』『しあわせのどん底』『極楽家族』『七人の刑事・市民の海』『楽園の日々』『さらばきらめきの日々』『魂の夏』『海峡』『野のきよら山のきよらに光さす』『春の波涛』『独身送別会』『水なき雲』『幸福な市民』『恐怖の二十四時間』『真夏の薔薇』『失楽園』『春燈』『五瓣の椿』『楽園に逃れて』『真珠夫人』の25本を挙げ、一番気に入っている作品に『わが美わしの友』(1975年、NHK)を挙げた[3]。
来歴
1935年-1989年
1990年以降
作風など
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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