この項目では、志士について記述しています。俳優の同名の人物については「中岡慎太郎 (俳優)
」をご覧ください。.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}中岡(なかおか) 慎太郎(しんたろう)
中岡慎太郎(1866年)
生年1838年5月6日
生地 日本・土佐国
没年 (1867-12-12) 1867年12月12日(29歳没)
没地 日本・京都
活動倒幕運動
藩土佐藩脱藩
所属陸援隊
受賞贈正四位
廟京都霊山護国神社(霊山墓地)
靖国神社
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慎太郎慎太郎生家(復元)北緯33度27分23.4秒 東経134度03分25.1秒円山公園の坂本龍馬と中岡慎太郎像
(写真は戦後再建された2代目の像)
中岡 慎太郎(なかおか しんたろう、天保9年4月13日〈1838年5月6日〉 - 慶応3年11月17日〈1867年12月12日〉)は、日本の幕末の志士。陸援隊隊長。贈正四位(1891年〈明治24年〉4月8日)。 土佐国安芸郡北川郷柏木村(現在の高知県安芸郡北川村柏木)に北川郷の大庄屋・中岡小傳次と後妻ウシの長男として生まれた。名は道正。通称ははじめ福太郎(「福五郎」とも)、光次、のち慎太郎。号は遠山、迂山。変名は石川清之助(誠之助、清之介)、大山彦太郎、横山勘蔵、寺石貫夫など。 安政元年(1854年)、間崎哲馬に従い経史を学び、翌年には武市瑞山(半平太)の道場に入門して剣術を学ぶ。安政4年(1857年)、野友村庄屋・利岡彦次郎の長女・兼(かね)と結婚(慎太郎は数え年で20歳、兼は15歳)。文久元年(1861年)には武市が結成した土佐勤王党に加盟して、本格的に志士活動を展開し始める。 文久2年(1862年)、長州藩の久坂玄瑞・山県半蔵とともに、松代に佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論し、大いに意識を高める。 文久2年(1862年)12月、土佐勤王党の間崎哲馬、平井収二郎、弘瀬健太が、青蓮院宮親王の令旨を奉じ、土佐の藩政改革を企てる(青蓮院宮令旨事件 文久3年(1863年)4月、土佐に帰国した容堂は、攘夷派の弾圧を開始する。まず、乾(板垣)退助、平井善之丞、小南五郎右衛門、小笠原唯八ら、他藩士と交際し攘夷論を唱える上士たちを免職し、6月には先の青蓮院宮令旨事件の首謀者3名を切腹に処した。 京都で八月十八日の政変が起こると、弾圧はさらに激化し、盟主の武市をはじめ、武市の実弟・田内衛吉
生涯
生い立ち
勤王党弾圧
慎太郎も捕縛対象に含まれていたが、同志・足立行蔵から危機を知らされて脱藩し、辛くも窮地を脱した。 土佐藩を脱藩した慎太郎は、同年9月、長州藩に身を寄せる。以後、石川清之助と変名を称し、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となった。また、周防国三田尻に都落ちしていた三条実美ら七卿(五卿)の衛士となり、長州はじめ各地の志士たちとの重要な連絡役となった。 元治元年(1864年)7月19日に勃発した禁門の変には、浪士部隊・忠勇隊の一員として参戦したが、長州軍は惨敗し、慎太郎も銃弾で足を負傷した。この戦いで、忠勇隊総督の真木和泉が自刃したため、慎太郎は和泉の弟・外記 禁門の変での敗戦に追い打ちをかけるように、翌8月、長州藩は、昨年の攘夷実行(下関を航行する外国船への砲撃)の報復として、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの四ヶ国艦隊による攻撃を受ける(下関戦争)。この戦争で、外国との軍事格差を思い知った慎太郎は、攘夷の無謀を悟り、開国による富国強兵論へ転じる。 慶応元年(1865年)冬、慎太郎は『時勢論 禁門の変以降朝敵と定められ、幕府による再討(第二次長州征伐)が迫りつつあった長州藩の救援と、雄藩連合による国家の再建を実現するため、慎太郎は土佐浪士の土方久元らと共に、薩長同盟の実現を目指して周旋を開始する。 この動きに、長崎で亀山社中(後の海援隊)を結成した坂本龍馬なども賛同し、慶応2年1月21日(あるいは22日)、京都二本松薩摩藩邸(現在地・同志社大学)で薩長を和解させ、堀川通一条東の近衛家別邸(薩摩藩家老・小松清廉寓居/御花畑御屋敷)において薩長同盟を締結させた。 また、同年2月には、西郷から山内容堂への働きかけによって、慎太郎と龍馬は土佐藩から脱藩の罪を赦免された(ただし、身分は浪士のままで、藩籍復帰はしていない)。 慶応3年(1867年)、慎太郎は江戸の乾退助を京に呼び寄せ、5月18日、京都東山の料亭「近安楼」で、乾、福岡藤次、広島藩・船越洋之助らと会見した[1]。さらに5月21日、慎太郎は乾を薩摩の西郷隆盛に会わせることにし、以下の手紙を書いた[2]。一筆拝呈仕候。先づ以て益々御壮榮に御坐成さらるる可く、恭賀たてまつり候。今日、午後、乾退助、同道御議論に罷り出で申したく、よっては大久保先生、吉井先生方にも御都合候はば、御同会願いたてまつりたき内情に御座候。もつとも強いて御同会願いたてまつると申す訳には、御座なく候。何分にも御都合次第之御事と存じたてまつり候。尚又、今日、昼後の処、もし御不工面に候はば、何時にてもよろしき儀に御座候間、悪しからぬ様、願い上げたてまつり候。右のみ失敬ながら愚礼呈上、如比御座候、以上。 (慶応三年)五月廿一日 清之助[3] 再拝 これにより、慎太郎は同日、京都(御花畑)の薩摩藩家老・小松清廉寓居[5] で、土佐藩の谷干城・毛利恭助らとともに薩摩藩の西郷吉之助(のちの隆盛)らと武力倒幕を議する事となった。
長州への亡命
攘夷論から開国論へ
薩長同盟の締結
薩土倒幕挙兵の密約
(西郷)南洲先生[4] 玉机下