中山道
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、五街道の一つの中山道について説明しています。テレビ東京の番組については「中山道 (テレビ番組)」をご覧ください。

中山道(なかせんどう)は、江戸時代に整備された五街道の1つで、江戸日本橋京都三条大橋を内陸経由で結ぶ街道である[1][2]

中仙道、仲仙道とも表記するほか、木曽街道や木曽路[3]の異称も有した。
概要

南回り・太平洋沿岸経由の東海道に対して、中山道は北回り・内陸経由で江戸と京都を結ぶ。草津追分以西は東海道と道を共にする。江戸から草津までは129里10町余(約507.7 km)あり、67箇所の宿場が置かれた[3]。また、江戸から京都までは135里34町余(約526.3 km)である[3]。現在の都府県では、東京都埼玉県群馬県長野県岐阜県滋賀県京都府に該当する地域を通過する。
経路五十五里塚跡、下諏訪宿中山道上の段(福島宿一里塚(岐阜県垂井町)

江戸の日本橋から板橋宿、高崎宿、軽井沢宿、下諏訪宿、木曽路関ヶ原を経て近江草津まで67の宿場(六十七次)がある。距離は東海道よりも40 kmほど長く、宿場も16宿多い[4]。宿場数が密であったのは、比較的険しい山道が多いことに加え、冬場は寒さも厳しい内陸の地域を通り、降雪時に通行が困難であったために、1日の歩行距離は短くなり限界があったからだと考えられている[4]。東海道に比べ大回りをする経路で、かつ、中山道には碓氷峠越えや和田峠越え、「木曽のかけはし」通過などの難所[5]があったにもかかわらず、往来は盛んであった。東海道には、船の使用が許されず川越人足が置かれ、時に長期の川止めもある大井川安倍川[6]、険しい箱根峠など交通難所が多い上に、江戸幕府による「入鉄砲出女」の取り締まりが厳しかったため、これらを避けて、中山道を選ぶ者も多くいたと言われている。また、中山道筋の旅籠の宿代は、東海道よりも2割ほど安かったとされる[4]

西からであるが倉賀野宿からは日光例幣使街道が整備され、日光西街道を経て日光街道に接続している[7]

信濃の下諏訪では、日本橋を立ち甲府を経由する五街道の1つである甲州街道と再び合流する[4]。また、美濃の垂井で脇街道(脇往還)である美濃路と接続し、東海道の(熱田)と連絡した[4]
宿場の一覧詳細は「中山道六十九次#六十九次の一覧」を参照
主な峠

碓氷峠坂本宿 - 軽井沢宿

笠取峠(芦田宿 - 長久保宿

和田峠和田宿 - 下諏訪宿

塩尻峠(下諏訪宿 - 塩尻宿

鳥居峠奈良井宿 - 藪原宿

馬籠峠妻籠宿 - 馬籠宿

十曲峠(馬籠宿 - 落合宿

十三峠大井宿 - 大湫宿

琵琶峠(大湫宿 - 細久手宿

物見峠(細久手宿 - 御嶽宿

うとう峠太田宿 - 鵜沼宿

今須峠関ヶ原宿 - 今須宿

摺針峠(番場宿 - 鳥居本宿

歴史
前史
律令時代

律令時代東山道畿内から東日本の各重要地が位置する内陸部を経由し、加えて効率良く陸奥国へ至る幹線路として整備された。途中の上野国から分岐して武蔵国に向かう東山道武蔵路もあった(後の中山道よりも西寄りのルートをたどっていた)。
戦国時代

戦国時代の東山道は、武田氏甲斐国)や小笠原氏信濃国)や金森氏飛騨国)や織田氏美濃国)などの地盤であった。このため、武田氏や織田氏を中心とする軍勢などによって、東山道と東海道を結ぶ連絡線が整備された。この連絡線は、現在の国道52号国道151号国道153号国道22号などの源流となった。

織田信長は江南の六角氏攻略のため近道を整備し、醒ヶ井宿滋賀県米原市)から鳥居本宿(滋賀県彦根市)間で東山道と異なり、中山道となった。

1600年(慶長8年)、宇都宮から関ヶ原の戦いへ向かう徳川秀忠の軍勢が中山道を通っている。

東山道の岡谷佐久間をショートカットし和田峠を越える道筋はすでに使われていた。
江戸時代

江戸時代に入り、江戸幕府は、1601年(慶長6年)から7年間で他の五街道とともに中山道を整備した。それまでの東山道の街道を改良したものが多かったが、大井宿岐阜県恵那市) - 御嶽宿(岐阜県可児郡御嵩町)間や、加納宿(岐阜県岐阜市) - 赤坂宿(岐阜県大垣市)間など、新しく作られた街道筋もあった。

戦国時代迄は山道や東山道とも称された。江戸時代には中山道や中仙道とも表記されたが、1716年享保元年)に、新井白石の意見を入れた江戸幕府の通達により中山道に統一された[8]。一方で庶民には木曽街道や木曽路といった古くからの呼称、俗称も用いられた。また、数箇所の険しい峠道があった。東海道のような長期にわたる川止めがある河川は比較的少ないと言えど、長良川の増水と川止めに留意をするなど、河川対策はそれなりに必要であった。中山道は、姫街道とも呼ばれ、京都の宮中から将軍家に嫁ぐ際、通行していた。皇女和宮の他、徳川家定の2番目の正室「澄心院」は63番目の鳥居本宿にて休憩をしている[9]

幕末、文久元年(1861年10月20日)に皇女和宮は徳川家への降嫁のための江戸下向の旅についた。下向経路は、当初東海道とされていたが、中山道に変更・利用された。このことは、下向に先立つこと半年程前の文久元年3月26日(1861年5月5日)に、老中久世大和守から道中奉行兼帯の大目付平賀駿河守(勝足)に発出された文書から明らかにされている[10]。大目付江
和宮様当春中御下向たるべき旨、先達而被仰出候処、東海道筋荒所等も多く、御通行御差支二、中山道江御通替被仰出候。御下向之儀、暫御差延被仰出候。猶御頃合之儀者、追而被仰出。右之通向々江可被達候。 ? 『久世大和守殿渡候御書付之写』に拠る

関所は、上野国碓氷群馬県安中市)、信濃国福島長野県木曽郡木曽町)、信濃国贄川(長野県塩尻市)の3箇所に設置された。
明治時代以降

明治中期以降、鉄道網の発達により、東京と京都を結ぶ街道としての中山道は次第に衰退していった。ただし、中山道のそれぞれの部分は、「東京と信州を結ぶ街道(東京 - 長野)」「尾張と木曾を結ぶ街道(名古屋 - 長野)」などとして、依然として重要な街道であり続けた。
中山道幹線詳細は「中山道幹線」を参照

1869年(明治2年)、明治政府により東京 - 京都の両市を結ぶ鉄道建設計画が発表された。明治政府は、東西を結び国家建設の中核となる鉄道建設を計画したが、その路線の選定では東海道ルートと中山道ルートの両案が並立した。東海道ルートは1870年(明治3年)、中山道ルートに対しては1871年(明治4年)から1875年(明治8年)にかけて数回の実地調査が行われた結果、1876年(明治9年)に建築師長ボイルから上告書が提出され、建設は中山道ルートが適当であると決定した[11]。上告書には、東海道ルートで建設した場合、既に海運が発達していたために競争となって運賃の高い鉄道は不利であり、逆に山沿いで建設すれば新たな地域開発も図れるという点から有利であると報告されている。しかし資金難から政府による鉄道建設は進まず、1883年(明治16年)に、再度路線の比較検討が行われた。東海道ルートでは箱根の山越えと大井川等の河川に架橋することの困難さが懸念される一方、中山道ルートはすでに私鉄の日本鉄道により1883年(明治16年)7月28日上野 - 熊谷間などが開業、翌1884年(明治17年)には上野 - 高崎間が開通予定であったこと、碓氷峠通過の困難さが検討事項に入っていないなどにより、正式に「中山道鉄道建設公債」を発行して中山道ルートを建設することが決定した[12]。一説には、戦時における海からの攻撃に対する脆弱性を懸念する軍部の山縣有朋1883年(明治16年)6月に「鉄道は山側に敷設すべき」と主張[13]したことから、このようなルートが採用されたとするものもあるが、実際には工部省鉄道局が1883年(明治16年)8月にこのルートの採用を決めて[14]いる。

更に、当時の日本の主力輸出産品であった生糸の主産地である群馬県長野県を通ることで、産業振興に重要な役割を果たせるという期待もあった。また、東西幹線の通過しない地域の振興も図るため、多くの支線(軽井沢 - 直江津岐阜 - 武豊米原 - 敦賀など)も設置することになっていた。

この決定に従い、官設鉄道の手で中山道幹線本線やその支線(資材運搬用)の建設が進んだ。開業は以下の通りである。

1882年3月10日、支線部分:長浜 - 柳ヶ瀬間、洞道口(仮)(後の洞道西口) - 金ヶ崎(現在の敦賀港)間(注:東西幹線ルート決定前の開業)

1884年4月16日、支線部分:柳ヶ瀬 - 洞道西口(仮)間

5月25日、支線部分:大垣 - 長浜間


1885年10月15日、本線部分:高崎 - 横川

1886年3月1日、支線部分:武豊 - 大府 - 熱田

1886年4月25日、支線部分:熱田 - 大垣間(武豊 - 敦賀 - 金ヶ崎間開通)

1886年7月19日、明治政府は東西幹線ルートを東海道に変更すると決定。実際に測量が開始され、一部では建設にも着手したが、碓氷峠などの山越えが予想以上に険しく、工事の長期化や費用増、開業後の輸送力制限などが避けられなくなった。そこで、産業革命の進展や国際情勢の緊迫化などで東西幹線の早期完成や輸送力強化が求められるようになった。また、このルートで通過しない名古屋の市長は市の衰退を憂慮し、国へ東海道ルートへの変更を求めて働きかけを行っていた。そこで、一部を除けば比較的平坦で、当時の技術水準でも早期完成が可能な東海道ルートに変更し、1890年帝国議会開設に間に合うように至急工事が行われることになった。

1889年7月1日東海道本線新橋(後の汐留) - 神戸間が全通。中山道幹線として建設された部分では、本線の西側部分になる大垣 - 草津 - 京都間と、支線の大府 - 大垣間が東海道線として組み込まれた。支線のうち、武豊 - 大府間は東海道線の支線となり、その後1909年武豊線となった。

1890年11月25日、第一回帝国議会(第一議会)が召集された。

東海道線開通以後

東海道線の全通により、中山道はその任務を大きく変えることになった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:84 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef