中山道
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この項目では、五街道の一つの中山道について説明しています。テレビ東京の番組については「中山道 (テレビ番組)」をご覧ください。

中山道(なかせんどう)は、江戸時代に整備された五街道の1つで、江戸日本橋京都三条大橋を内陸経由で結ぶ街道である[1][2]

中仙道、仲仙道とも表記するほか、木曽街道や木曽路[3]の異称も有した。
概要

南回り・太平洋沿岸経由の東海道に対して、中山道は北回り・内陸経由で江戸と京都を結ぶ。草津追分以西は東海道と道を共にする。江戸から草津までは129里10町余(約507.7 km)あり、67箇所の宿場が置かれた[3]。また、江戸から京都までは135里34町余(約526.3 km)である[3]。現在の都府県では、東京都埼玉県群馬県長野県岐阜県滋賀県京都府に該当する地域を通過する。
経路五十五里塚跡、下諏訪宿中山道上の段(福島宿一里塚(岐阜県垂井町)

江戸の日本橋から板橋宿、高崎宿、軽井沢宿、下諏訪宿、木曽路関ヶ原を経て近江草津まで67の宿場(六十七次)がある。距離は東海道よりも40 kmほど長く、宿場も16宿多い[4]。宿場数が密であったのは、比較的険しい山道が多いことに加え、冬場は寒さも厳しい内陸の地域を通り、降雪時に通行が困難であったために、1日の歩行距離は短くなり限界があったからだと考えられている[4]。東海道に比べ大回りをする経路で、かつ、中山道には碓氷峠越えや和田峠越え、「木曽のかけはし」通過などの難所[5]があったにもかかわらず、往来は盛んであった。東海道には、船の使用が許されず川越人足が置かれ、時に長期の川止めもある大井川安倍川[6]、険しい箱根峠など交通難所が多い上に、江戸幕府による「入鉄砲出女」の取り締まりが厳しかったため、これらを避けて、中山道を選ぶ者も多くいたと言われている。また、中山道筋の旅籠の宿代は、東海道よりも2割ほど安かったとされる[4]

西からであるが倉賀野宿からは日光例幣使街道が整備され、日光西街道を経て日光街道に接続している[7]

信濃の下諏訪では、日本橋を立ち甲府を経由する五街道の1つである甲州街道と再び合流する[4]。また、美濃の垂井で脇街道(脇往還)である美濃路と接続し、東海道の(熱田)と連絡した[4]
宿場の一覧詳細は「中山道六十九次#六十九次の一覧」を参照
主な峠

碓氷峠坂本宿 - 軽井沢宿

笠取峠(芦田宿 - 長久保宿

和田峠和田宿 - 下諏訪宿

塩尻峠(下諏訪宿 - 塩尻宿

鳥居峠奈良井宿 - 藪原宿

馬籠峠妻籠宿 - 馬籠宿

十曲峠(馬籠宿 - 落合宿

十三峠大井宿 - 大湫宿

琵琶峠(大湫宿 - 細久手宿

物見峠(細久手宿 - 御嶽宿

うとう峠太田宿 - 鵜沼宿

今須峠関ヶ原宿 - 今須宿

摺針峠(番場宿 - 鳥居本宿

歴史
前史
律令時代

律令時代東山道畿内から東日本の各重要地が位置する内陸部を経由し、加えて効率良く陸奥国へ至る幹線路として整備された。途中の上野国から分岐して武蔵国に向かう東山道武蔵路もあった(後の中山道よりも西寄りのルートをたどっていた)。
戦国時代

戦国時代の東山道は、武田氏甲斐国)や小笠原氏信濃国)や金森氏飛騨国)や織田氏美濃国)などの地盤であった。このため、武田氏や織田氏を中心とする軍勢などによって、東山道と東海道を結ぶ連絡線が整備された。この連絡線は、現在の国道52号国道151号国道153号国道22号などの源流となった。

織田信長は江南の六角氏攻略のため近道を整備し、醒ヶ井宿滋賀県米原市)から鳥居本宿(滋賀県彦根市)間で東山道と異なり、中山道となった。

1600年(慶長8年)、宇都宮から関ヶ原の戦いへ向かう徳川秀忠の軍勢が中山道を通っている。

東山道の岡谷佐久間をショートカットし和田峠を越える道筋はすでに使われていた。
江戸時代

江戸時代に入り、江戸幕府は、1601年(慶長6年)から7年間で他の五街道とともに中山道を整備した。それまでの東山道の街道を改良したものが多かったが、大井宿岐阜県恵那市) - 御嶽宿(岐阜県可児郡御嵩町)間や、加納宿(岐阜県岐阜市) - 赤坂宿(岐阜県大垣市)間など、新しく作られた街道筋もあった。

戦国時代迄は山道や東山道とも称された。江戸時代には中山道や中仙道とも表記されたが、1716年享保元年)に、新井白石の意見を入れた江戸幕府の通達により中山道に統一された[8]。一方で庶民には木曽街道や木曽路といった古くからの呼称、俗称も用いられた。また、数箇所の険しい峠道があった。東海道のような長期にわたる川止めがある河川は比較的少ないと言えど、長良川の増水と川止めに留意をするなど、河川対策はそれなりに必要であった。中山道は、姫街道とも呼ばれ、京都の宮中から将軍家に嫁ぐ際、通行していた。皇女和宮の他、徳川家定の2番目の正室「澄心院」は63番目の鳥居本宿にて休憩をしている[9]


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