中山竹通
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出典検索?: "中山竹通" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年7月)

中山 竹通

選手情報
フルネームなかやま たけゆき
ラテン文字Takeyuki Nakayama
国籍 日本
種目長距離走マラソン
生年月日 (1959-12-20) 1959年12月20日(62歳)
生誕地長野県北安曇郡池田町
身長180cm
体重58kg
自己ベスト
5000m13分43秒80(1986年)
10000m27分35秒33(1987年)
マラソン2時間08分15秒(1985年)

獲得メダル

陸上競技
アジア競技大会
1986 ソウル男子マラソン


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中山 竹通(なかやま たけゆき、1959年12月20日 - )は長野県北安曇郡池田町出身の日本の元陸上競技長距離種目)選手、指導者。身長180cm、体重58kg(現役当時)。息子の中山卓也も陸上長距離種目選手。

1980年代後半に瀬古利彦宗茂宗猛兄弟、新宅雅也らと、1990年代前半には谷口浩美森下広一らと日本マラソン界をリードした。2時間10分を切るサブテン5回は川内優輝高岡寿成に続き、瀬古利彦佐藤敦之藤原新と並び日本歴代3位タイ、2時間9分を切るレース4回は高岡と並び日本最多タイ(2014年現在)。
来歴

生家は山間の農家だった[1]長野県池田工業高等学校時代に陸上競技を始める[1]。高校3年時には国民体育大会長野県予選の少年男子A5000mで優勝するも、記録的に本選で上位に入れそうもないと判断され、派遣を見送られる[2]

高校卒業時、陸上部のある県下の養命酒への採用がほぼ内定していたが、高校教師の手違いで東京の養命酒本社に出向く日にバスケットシューズをはいていったところ、それが実は面接で、結局中山は不採用となった[2]。そのため国鉄臨時職員として入る[1]。国鉄では車両基地で清掃作業などをしながら走っていた[2]。高校時代の指導者が富士通長野工場の陸上部監督に相談して入社、ようやく安定した環境で走れるようになる[1]。とはいえ、陸上部の選手への特別扱いはなく、通常の勤務や残業をこなしながらの競技生活だった[1]。この間、中山は瀬古利彦のフォームを研究しながら、世界に勝てるスピードを得るためにつま先から着地する走法を身につける[3]1983年3月、中日名古屋スピードマラソンの男子30kmの部に出場、3位に入る(優勝した中村孝生と22秒差)[4]。当時旗揚げに際して選手の確保が進まなかったダイエー陸上部のメンバーがテレビ中継でこの走りを見て獲得をコーチの佐藤進に進言し、半年後にダイエーに入社した[4]。佐藤の立てた厳しいトレーニングメニューを中山はこなし、練習量を増やした[4]。同年12月の福岡国際マラソンで初マラソンを走る[5]。瀬古利彦が優勝したこのレースで中山は14位であった[1]

1984年の福岡国際マラソンで2時間10分00秒で初優勝。

1985年4月14日のワールドカップマラソン広島大会で日本最高記録で世界歴代3位(当時)の2時間8分15秒でアーメド・サラジブチ)に次ぐ2位でフィニッシュ[1][注 1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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