この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年7月)
凡例中山 忠光
中山忠光
肖像写真
時代江戸時代後期
生誕弘化2年4月13日(1845年5月18日)
死没元治元年11月15日(1864年12月13日)
改名忠光→森俊斎
墓所山口県下関市の中山神社境内
官位従四位下侍従、贈正四位
主君孝明天皇
氏族中山家
父母父:中山忠能、母:愛子(松浦清の11女)
養父: 中山忠愛
兄弟忠愛、慶子、正親町公董、栄子
中山 忠光(なかやま ただみつ)は、江戸時代後期(幕末期)の公家。極官は従四位下侍従。過激な攘夷論者であり、天誅組の変を起こしたが敗れ、後に暗殺された。
生涯中山忠光
『近世文武英雄伝』(大蘇芳年〈月岡芳年〉画)
参議中山忠能の七男として生まれる。母は平戸藩主・松浦清の娘愛子。孝明天皇の典侍中山慶子は同母姉であり、その子の祐宮睦仁親王(明治天皇)にとって忠光は叔父にあたる。長兄中山忠愛の養子となっている[1]。
睦仁親王は5歳まで中山家で育てられており、忠光は最も近しい公家の一人であった。1858年(安政5年)に侍従に任官し、1860年(万延元年)には睦仁親王への伺候を命じられた[2]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}中山家は祐宮誕生の際に産屋を建てる金が無く、多額の借金をした。宮廷も貧しく、祐宮の質素な生活が忠光の王政復古を掲げた過激な攘夷論に火を付けたと思われる[要出典]。実父・忠能は議奏の役職にある朝廷政治の重要人物であり、忠光はその元に出入りする真木保臣、武市瑞山、久坂玄瑞、吉村虎太郎ら尊王攘夷派の志士と親しく交わり、過激な尊攘派となっていった。
過激攘夷活動が新設されると19歳でこれに加えられた。2月9日には攘夷の障害であると考えた岩倉具視と千種有文の暗殺計画を轟武兵衛・久坂玄瑞・寺島忠三郎に打ち明け、協力が得られなければ一人でも実行すると述べた[3]。久坂らから相談を受けた武市瑞山は、二人はすでに譴責を受けている身であるから暗殺は道理に合わないと反対し、代わって轟らによる関白鷹司輔煕への建白書提出で話を収めた[3]。
3月19日、忠光は密かに京都を脱して長州藩に身を投じた。このため3月30日には官位と国事寄人の職を返上することとなった[1]。このため長州では森俊斎(秀斎)と改名し、久坂玄瑞が率いる光明寺党の党首として下関における外国船砲撃に参加した。7月5日には京都に戻り、東久世通禧や烏丸光徳らと連絡を取った[4]。