中山みき
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中山みき

個人情報
生誕前川 美支(まえがわ みき)
寛政10年4月18日1798年6月2日
大和国山辺郡西三昧田村(現在の奈良県天理市三昧田町)
死没明治20年(1887年2月18日
大和国山辺郡庄屋敷村(現在の奈良県天理市三島町)
墓所奈良県天理市豊田町豊田山墓地
宗教(浄土宗→)
天理教
配偶者中山善兵衛
子供秀司、まさ、やす、はる、つね、こかん
両親父:前川半七、母:前川きぬ
地位
任期1838年 - 1887年
就任日天保9年(1838)
次代中山眞之亮
退任理由現身をお隠しになされた(逝去)為。
地位天理教開祖
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中山 みき(なかやま みき、寛政10年4月18日1798年6月2日〉- 明治20年〈1887年2月18日)は、日本宗教家天理教教祖明治21年(1888年11月1日に天理教教会本部より出版された「みかぐらうた」複製本の初版では、著者は「奈良県平民 故中山美支」となっているが[1]、現在の天理教では「中山みき」が公式表記とされる[2]。天理教では、「教祖」と書いて「おやさま」と呼称している。
生涯

寛政10年4月18日1798年6月2日)朝に、津藩領の大和国山辺郡三昧田村(正確には西三昧田村、当時三昧田村は東西に分割され、東は柳本藩領、西が津藩領だった。現在の奈良県天理市三昧田町)の庄屋・前川(まえがわ)半七正信の家に生まれる。『稿本天理教教祖伝』などによると、幼少の頃からの慈悲深さと同情の心の篤さ、信仰熱心といった記述が多い[3]。前川家は浄土宗檀家であったので、その感化を幼時より受けて浄土宗の熱心な信者となった。浄土宗の尼僧になることを希望し、19歳の時に中山家の檀那寺であった勾田村(現・天理市勾田町)の善福寺にて五重相伝を受ける[3]

文化7年9月15日1810年10月13日)に、同じく津藩領・庄屋敷村の庄屋・中山善兵衞に嫁ぐ。天理教では、その教義においてこの中山家を含む地所が人間世界創造に由来があるとして、この場所を「元のやしき」あるいは「お屋敷」と呼んでいる。

天保9年10月23日1838年12月9日)の夜四ッ刻(午後十時)、長男・秀司の足の病の原因究明と回復のために、修験道当山派内山永久寺の配下の山伏、中野市兵衛に祈祷を依頼した[注釈 1]。その時市兵衛が災因を明らかにするためにする憑祈祷の依り坐が不在だったために、みきが依り坐、加持代となる。この時、みきの様子は一変し、まったく別人になったかのような、著しい変化があり、いわゆる憑依状態に入った[4]。このことを天理教では「月日(神)のやしろ」に召される、と呼んでいる[注釈 2]。このときに憑依を悟った市兵衛が「あなたは何神様でありますか」と問うたところ、みきは「我は天の将軍なり」あるいは「てんしょうこう」「大神宮」とこたえたなど、諸説ある。[5][6]とされる。市兵衛があらためて「天の将軍とは何神様でありますか」というと「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。[7]」あるいは「我はみきの体を神の社とし、親子諸共神が貰い受けたい。[6]」と語り、親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)がみきに憑依天啓を受けたとされている。中山家は古くから村の庄屋や年寄といった村役人をつとめる家であり[5]、同時に質屋業を営んでおり、みきの伝記である稿本天理教教祖伝には「子供は小さい、今が所帯盛りであるのに神のやしろに差上げては、後はどうしてやって行けるか善兵衞としても、元の神の思召の激しさに一抹の懸念は残るが、さりとて、家庭の現状を思えば、どうしてもお受けしようという気にはなれないので、又しても、一同揃うて重ねてお断り申し、早々にお昇り下さい。」とあるように、再三辞退を続けたが、みきが「元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする。」と申し出を受け入れるならば世の人々を救済するが、拒めば人の世を滅ぼすとこたえ、最終的にみきの家族の反対を振り切る形で、10月26日(同年12月12日)になって、夫の善兵衛がみきを「月日(神)のやしろ」となることを承諾した[4][5][6]。そのときのみきは「満足、満足」とこたえて、憑依が終わったとされている[5]。みきの孫で後の初代真柱中山眞之亮の手記に「御持なされる幣を振り上げて紙は散々に破れ御身は畳に御擦り付けなされて遂に御手より流血の淋漓たる」と書かれているように、この間のみきは衰弱していた[5][8]

こうして天理教が立教されたが、みきはしばらくすると屋敷内の内蔵にこもりがちになり、遂には終日出てこずに誰もいないはずの蔵の中で誰かと話をするかのように眩く声が蔵の外まで漏れて聞こえてくることもあった[5]。次第に中山家の評判は悪化し、史実でも庄屋中山善兵衞の名前は天保10年(1838年)3月晦日付「宗旨御改帳」を奉行所へ提出したのを最後に地方文書から消えている[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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