中尾 孝義基本情報
国籍 日本
出身地兵庫県加西市
生年月日 (1956-02-16) 1956年2月16日(68歳)
身長
体重173 cm
75 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション捕手、外野手
プロ入り1980年 ドラフト1位
初出場1981年4月4日
最終出場1993年10月24日
(日本シリーズ第2戦)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
加西市立北条中学校
中尾 孝義(なかお たかよし、1956年2月16日 - )は、兵庫県加西郡北条町(現:加西市)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督・スカウト。所属先は株式会社レガシージャパン。
愛称は「一休さん」[1]。 生家は豆腐の販売・製造から稲作、養豚も手掛けていた農家[2]。姉との二人姉弟[2]。子供のころは阪神ファンだった[2]。加西市立北条小学校3年生の時からソフトボールを始める[2]。 加西市立北条中学校へ入学し野球部に入る。1年生の時は三塁手、2年生で三塁手兼投手、3年生になりエースで4番を務めた[3]。同中学校には陸上部が無かったため市の陸上競技大会に走り幅跳びと砲丸投げの選手として駆り出され、ともに優勝を果たした。東播大会では走り幅跳び優勝・砲丸投げ3位で県大会に進出している[3][注釈 1]。 中学卒業を間近に控えたころ、進学先の候補として、中学教師の紹介で三田学園高校野球部監督の日下隆と面会するも「自分は今年(1970年)限りで三田学園を去るから」[注釈 2]ということで、改めて日下から滝川高校野球部監督の吉本宗泰を紹介され、最終的に滝川高を進学先に決める[3]。 滝川高では、吉本監督に投手は無理と判断され、肩の強さから外野手に配置される[4]。2年生からは、監督の指示により未経験だった捕手に転向[4]。3年生の1973年には三番打者、捕手として夏の甲子園県予選の決勝に進出するが、進学時に誘いのあった[注釈 3][5]東洋大姫路に惜敗し甲子園出場を逸する。2年下のチームメートに中堅手の島田芳明がいた。中尾と同学年のエース・江川卓を擁する作新学院との練習試合では、練習ということから江川は直球のみで勝負するも三振の山を築く。しかし中尾だけはファウルで何球も粘り、根負けした江川がカーブを投じ、タイミングを外された中尾は三振。このことから「江川にカーブを投げさせた男」として中尾は同校で語り継がれた[6]。 1974年、江川らとともに慶應義塾大学を受験するも不合格となる。彼らとは、3年生の9月から毎週末に慶大受験合宿所で顔を合わせる仲だった[7]。江川はその後法政大学2部へ進学し、中尾は上京して浪人の道を選ぶ[8]。 1975年も再び慶大を受験したが、再度不合格となった[注釈 4]。2浪は選択せず高校監督の出身校である専修大学へ入学[8]。 東都大学野球リーグ通算97試合出場、353打数106安打、打率.300、13本塁打、59打点、ベストナイン4回選出。 1975年には第11回アジア野球選手権大会日本代表となる。大学の監督であった小林昭仁が日米大学野球の遠征時、現地でつばのない捕手用ヘルメットを入手し使用したことで「一休さん」の愛称がついた[5]。 1978年春季リーグでは、同期の堀田一彦や1年生の山沖之彦ら強力投手陣とバッテリーを組み、25季ぶりの優勝に貢献。最高殊勲選手に選ばれた。同年の大学選手権では、決勝で明大に敗れ準優勝。 1977年から2年連続で日米大学野球選手権大会日本代表に選出された。なお、中日時代の応援歌の原曲となったのは大学応援歌「スター専修」であった。 大学3年の時点でプリンスホテル(当時はまだ野球部の創立前)から勧誘があり、両親もプロ入りに反対だったため、プリンスホテル入社はほぼ決定的だった[7]。一方、大学時代の活躍からドラフト会議で指名される可能性もあり、特に中日からは熱心な誘いがあった。ドラフト直前には両親もプロ入りに賛成していたが、専修大とプリンスホテルの関係悪化も懸念し、そのまま同社へ入社することになった[9]。 大学卒業後は、堀田や大学受験の仲間であった堀場秀孝とともにプリンスホテルへ入社。
経歴
生い立ち
高校時代
大学時代
社会人時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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