中尊寺
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この項目では、平泉町にある天台宗の寺について説明しています。台中市にあった浄土真宗本願寺派の寺については「中尊寺 (台中市)」をご覧ください。

中尊寺

金色堂覆堂(国宝の金色堂は覆堂内にある)
所在地岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度0分5.5秒 東経141度6分9.8秒 / 北緯39.001528度 東経141.102722度 / 39.001528; 141.102722座標: 北緯39度0分5.5秒 東経141度6分9.8秒 / 北緯39.001528度 東経141.102722度 / 39.001528; 141.102722
山号関山(かんざん)
宗旨天台宗
寺格東北大本山
本尊釈迦如来(本堂本尊)
創建年(伝) 嘉祥3年(850年
開山(伝) 円仁(慈覚大師)
札所等奥州三十三観音番外札所
四寺廻廊札所
文化財金色堂、金色堂堂内諸像及び天蓋他(国宝)
金色堂旧覆堂他(重要文化財)
特別史跡
公式サイト中尊寺
法人番号5400505000243
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中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院。奥州三十三観音番外札所。山号は関山(かんざん)、本尊は釈迦如来 [1]。寺伝では円仁開山とされる。実質的な開基藤原清衡

奥州藤原氏三代ゆかりの寺として著名であり、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂を始め、多くの文化財を有する。

境内は「中尊寺境内」として国の特別史跡に指定されている[2]2011年平成23年)6月26日、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された[3]

平泉毛越寺、松島瑞巌寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。
歴史

寺伝によると、嘉祥3年(850年)、円仁(慈覚大師)が関山弘台寿院を開創したのが始まりとされ、その後貞観元年(859年)に清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったという。しかし、円仁開山のことは、確かな史料や発掘調査の結果からは裏付けられず、実質的には12世紀初頭、奥州藤原氏の初代・藤原清衡釈迦如来多宝如来を安置する「多宝寺」を建立したのが、中尊寺の創建と見られる。
藤原清衡と中尊寺

奥州藤原氏の初代、藤原清衡は前九年の役のさなかの天喜4年(1056年)に生まれた。清衡の家系は藤原秀郷の流れを汲むという。清衡が7歳の時、彼の父藤原経清は、安倍氏に味方したかどで斬殺された。清衡の母は安倍氏の出であったが、夫経清が殺害された後、安倍氏とは敵対関係にあった清原家の清原武貞と再婚。清衡は清原武貞の養子として「清原清衡」を名乗ることになる。つまり、清衡は前九年の役で滅亡した安倍氏の血を引くとともに、後三年の役で滅びた清原家の養子でもあった。清衡の兄弟には兄・真衡(清原武貞と先妻の子)と、弟・家衡(清衡の母と清原武貞の間に生まれた子)がいた。真衡は弟の清衡・家衡とは対立していた。真衡の死後、彼が支配していた奥州の奥六郡[4]は、清衡と異父弟・家衡に3郡ずつ与えられたが、これが元となって今度は清衡と家衡の間に争いが生じた。清衡は源義家の助力を得て戦いに勝利し、清原氏は滅亡した。この一連の内紛を「後三年の役」と称する。この合戦のさなか、清衡は館に火を放たれ、妻と子を失っている。その後、清衡は現在の岩手県にほぼ相当する奥州奥六郡を支配下に収め、父の姓である「藤原」を名乗って「藤原清衡」と称するようになる。清衡は寛治3年(1089年)には陸奥押領使に任命され、嘉保4年(1094年)頃には居館を江刺郡豊田館 とよたのたち、奥州市)から、中尊寺のある平泉に移している。このように、藤原清衡の前半生は兄弟・親族が相争うもので、多くの近親者の死を目の当たりにしてきた。壮年以降の清衡が平泉の地に、都の大寺院にも劣らぬ仏堂を造立したのは、その莫大な経済力の背景があったこととともに、戦いに明け暮れた前半生を省み、戦没者の追善とともに、造寺造仏、写経の功徳により、自己の極楽往生を願ってのことであったと推測されている[5]「紺紙金字一切経(中尊寺経)」のうち(1117年-1126年

清衡が平泉にて中尊寺の中興(事実上の創建)に着手したのは長治2年(1105年)、50歳の時であった[6]。この時建てられた堂宇は「最初院」または「多宝寺」と称され、『法華経』「見宝塔品」に登場する多宝如来釈迦如来を本尊とするものであったが、その建築形式等の詳細は不明である。

現存する金色堂の上棟は、棟木銘から天治元年(1124年)と判明する。この堂は清衡が自身の廟堂として建立したもので、内部の須弥壇内には清衡と子の基衡、孫の秀衡の3代の遺体(ミイラ)が安置されている。

平泉では、奥州藤原氏4代(清衡、基衡秀衡泰衡)約100年にわたって王朝風の華やかな文化が栄え、毛越寺(もうつうじ、基衡建立)、観自在王院(基衡夫人建立)、無量光院(秀衡建立) などの寺院が建立されたが、当時の面影をとどめるのは中尊寺金色堂、毛越寺庭園と、紺紙金銀字経などのわずかな遺品のみである。
落慶供養願文

中尊寺に関わる重要史料の1つに「中尊寺落慶供養願文」[7]と称されるものがある[8]。これは藤原清衡が天治3年(1126年)3月24日付けで、鎮護国家のために大伽藍一区を建立供養する趣旨と、その伽藍の概要とを記したものである。なお、願文の原本は伝わらず、現存するものは、延元元年(1336年)頃の北畠顕家筆と、嘉暦4年(1329年)の藤原輔方筆の写本[9]である。かつての通説では、この願文が中尊寺一山の落慶供養を表すものと解釈されていた。しかし、この願文の本文中には「中尊寺」という寺号が使われていないこと、願文中に列挙されている「三間四面檜皮葺堂」などの建物跡が現在の中尊寺境内に見当たらないこと、願文中に出てくる建物、橋、池などはむしろ同じ平泉にある毛越寺の旧伽藍とよく一致することなどから、この願文は毛越寺の建立供養に関わるものとする説が立教大学中川成夫によって提唱され、複数の研究者によって支持されている[10]。また、この文書は天治3年3月24日付けであるが、天治3年は1月22日に改元して大治となっていることから、この願文は改元以前に作られた案文であると推定されている。
寺号

「中尊寺」の寺号については、天治3年(1126年)の経蔵文書が初出ともいうが、この文書自体に疑義がもたれている。そのため、確実な資料としては、歌人・西行が康治年間 (1142年 - 1144年)、この地を訪れて詠んだ歌の詞書(『異本山家集』所収)に「中尊と申所」云々とあるのが初出だとされている[11]

「中尊」は「奥州の中心に位置する」の意と解釈されている。中尊寺貫主を務めた多田厚隆は、「中尊」とは『法華経』「序品」にある「人中尊」に由来するとした[12]。しかし、「人中の尊」という意味の語から「人」字を省いたのでは意味をなさないとして、これに反対する見解もある[13]
中世以降

文治5年(1189年)、奥州藤原氏は滅亡するが、中尊寺は「鳥羽法皇御願」の寺とされ、源頼朝の庇護を得て存続した。『吾妻鏡』に、当時の中尊寺から頼朝に提出された「寺塔已下注文」(じとういげのちゅうもん)という文書が引用されている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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