中尊寺金色堂
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(国宝の金色堂は覆堂内にある)

中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)は、岩手県西磐井郡平泉町中尊寺にある平安時代後期建立の仏堂である。奥州藤原氏初代藤原清衡天治元年(1124年)に建立したもので、平等院鳳凰堂と共に平安時代の浄土教建築の代表例であり、当代の技術を集めたものとして国宝に指定されている。堂の所有者は宗教法人金色院である[1]。なお、中尊寺の歴史や金色堂以外の建築、文化財等については別項「中尊寺」を参照。
建築と堂内装飾堂内
概要

金色堂は、中尊寺山内のやや西寄りに東を正面として建つ、方三間(正面、側面共に柱間が3間)、平面の1辺が5.5メートルの小型の仏堂である。堂は、1965年建設の鉄筋コンクリート造覆堂内にあり、ガラス張りのスペースに納められて外気と遮断されている。金色堂は奥州藤原氏の初代藤原清衡により建立された。棟木に天治元年(1124年)の年次と共に「大檀散位藤原清衡」「女檀 安倍氏 清原氏 平氏」が物部清国を大工として建立した旨の墨書があり、この年が建立年とされている。2006年奈良文化財研究所は、解体修理時に取り外されていた金色堂の部材をデジタルカメラを使用した年輪年代測定法で調査した。その調査報告によれば、金色堂に使用された木材の伐採年代は1114年から16年頃とされ、上記の建立年代は科学的にも裏付けられた。奥州藤原氏滅亡直後の文治5年(1189年)、中尊寺経蔵別当心蓮が源頼朝に差し出した「寺塔已下注文」(『吾妻鏡』所収)には、当時残存していた中尊寺の堂宇が書き出されているが、その中に「金色堂 上下四壁は皆金色なり」云々の記載があり、当時から「金色堂」と称されていたことが分かる。
建築形式

平面は正面、側面とも3間で、正面の柱間全てと、側面の前端の間、背面の中央の間を板扉両開きとし、残りの柱間は横板壁とする。柱は円柱で、地長押、内法長押(うちのりなげし)、頭貫(かしらぬき)を用い、組物は三斗、中備(なかぞなえ)は蟇股(かえるまた)とする。軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)。屋根は宝形造(ピラミッド状の屋根形)で瓦形の木材で葺いた木瓦葺きとする。建物周囲には縁をめぐらすが、高欄や階段はない。内部には4本の柱(入側柱)が立ち、その内側が内陣、外側を外陣とする。間面記法(けんめんきほう)で表記すれば「一間四面」であり、典型的な阿弥陀堂建築である。内陣には金工や漆芸で飾られた須弥壇を、前方2本の柱よりやや後退した位置に設ける。外陣の右奥と左奥(西北隅と西南隅)にもそれぞれ須弥壇を設けるが、これらは後設されたものである。入側柱間は無目(扉や戸のない鴨居)、長押、頭貫で繋ぎ、各柱上に三斗の組物を置き、組物間には蟇股を置く。入側柱・側柱間は繋虹梁(つなぎこうりょう)で繋ぐ。天井は内陣が折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)、外陣は垂木をそのまま見せた化粧屋根裏とする。3つの須弥壇の上には阿弥陀三尊像等の仏像を安置する(詳しくは後述)。須弥壇内には藤原四代のミイラ化した遺体が安置されており、中央壇に清衡、右壇(向かって左)に基衡、左壇(向かって右)に秀衡の遺体が納められ、右壇には泰衡首級も納められている。遺体は土中に埋葬されているのではなく、木製金箔張りの棺に納められて、堂内に安置されていた。このように、金色堂は阿弥陀堂建築であると共に、藤原清衡(後にはその子孫も)の遺体を安置する墓堂、廟堂としての性格を有している。なお、左壇、右壇のいずれが先に増設されたか、いずれの遺体が基衡及び秀衡のものであるか等については後世に混乱が生じているが、これについては後述する。
装飾

金色堂の名のとおり、堂は内外共に総金箔貼りで、扉、壁、軒から縁や床面に至るまで漆塗りの上に金箔を貼って仕上げられている。ただし、木瓦部分のみは解体修理時に金箔の痕跡が確認できなかったため、金箔貼りとしていない。堂内に立つ4本の柱(入側柱)は「巻柱(まきばしら)」と称し、ヒバ材の八角柱の周囲にかまぼこ状の形をした杉材を貼り付けて円柱に仕立てている。これは、柱の表面を漆工芸で装飾するためであると共に、干割れを避けるための措置である。巻柱には蒔絵螺鈿で宝相華文(ほうそうげもん)と仏像が表されている。仏堂内部に壁画ではなく漆工芸で仏像を表現しているのは日本でも珍しい。各柱は、床に接する部分に蓮弁形の根巻金具がある。柱本体は、沃懸地(いかけじ)に螺鈿で宝相華文を表した細い帯が5か所にあり、これによって4つの区画に分けられている。このうち、上の3つの区画には研出蒔絵(とぎだしまきえ)で菩薩像が表され、一番下の区画には螺鈿で大ぶりの宝相華円文が表されている。各柱に表された菩薩像は4体×3段、計12体で、堂内の柱4本に計48体が表されている。これらの菩薩像の尊名や主題については諸説あり明らかではない。なお、4本の柱のうち、後方の2本は解体修理時の復元である。オリジナルの柱は、腐朽が進んでいたため解体修理後に再使用されず、別途保管されている。内陣の無目、長押、頭貫(かしらぬき)、三斗、蟇股(かえるまた)などの部材には沃懸地(いかけじ)に螺鈿で宝相華文を表す。無目と長押は螺鈿のほか、両端と中央に銅板透彫宝相華文の飾金具を取り付けている。天井は全面金箔貼りの上に各辻(縦横の部材の交点)には銅板透彫宝相華文の飾金具を取り付け、その中央に白銅鏡を飾る。中央壇・左壇・右壇の各天井中央には木造透彫の天蓋を吊るが、これは解体修理時の復元で、オリジナルの天蓋は別途保管されている。

須弥壇の側面は格狭間(ごうざま)を設け、銅板打ち出しの孔雀文で飾っている。なお、須弥壇の側面の装飾は、中央壇と左右壇とで技法が異なっている。中央壇では金工による装飾が主で、上框、下框、束(つか)は鍍金銀の宝相華透彫金具で飾られ、格狭間周囲の羽目板も銅板打ち出しで装飾されている。これに対し、左右壇では以上の部材の装飾は主に螺鈿で表されている。須弥壇上の高欄については、中央壇ではヒノキの芯材の上に紫檀を貼った紫檀地螺鈿とするのに対し、左右壇では堂内の他の場所と同様の沃懸地螺鈿が用いられている。中央壇の高欄では、角材の辺の部分に線状に切った象牙を貼っているが、これらの象牙が、鑑定の結果アジアゾウではなくアフリカゾウのものであることが判明している。これは北方貿易により大陸経由で輸入されたもので、このことからも当時の奥州藤原氏の財力と勢力の高さを窺い知ることができる。
建物の保存旧覆堂屋外に再現された金色堂 (えさし藤原の郷

堂は建立当初は屋外に建っていたが、建立の数十年後には建物を風雨から守るための「霧よけ」のような施設が造られ、やがて正応元年(1288年)鎌倉将軍惟康親王の命令で金色堂を外側からすっぽり包む形で覆堂が建設された。現在の金色堂覆堂は1965年に建設された鉄筋コンクリート造のもので、金色堂はこの覆堂内のガラス張りのスペースに収められ、温度・湿度が調整されている。様式的に室町時代の建築と考えられている木造の旧覆堂(重要文化財)は金色堂の北西に移築されている。金色堂は、長年の間にネズミなどの害にあったり、金箔が剥げるなど劣化が進んでいたため1962年から1968年にかけて解体修理が実施され、建立当初の姿に復元されている。解体修理後、強度の点で再使用できなかった部材は別途保管され、一部は覆堂内に保管されている。1986年から1990年にかけて、覆堂の改修工事が行われ、ガラスの壁も更新された。金色堂は1897年(明治30年)、当時の古社寺保存法によって「特別保護建造物」(現行法の重要文化財に相当)に指定。1951年、文化財保護法による国宝に指定された。

なお、金色堂については、しばしば「国宝建造物第1号」として紹介されるが[2]、金色堂と同じく1951年6月9日付けで国宝に指定された建造物は他に36件ある[3]。同日付けで国宝に指定された建造物のうち、地理的にもっとも北に位置する金色堂の指定番号が「1」になったものである。
藤原4代の御神体と副葬品金色堂の平面図。図の中央が中央壇、右上が左壇(西北壇)、左上が右壇(西南壇)。「左壇」「右壇」は本尊から見ての「左」「右」である点に注意。
御神体

金色堂の須弥壇内には、藤原清衡、基衡、秀衡の御神体化した遺体と泰衡の首級が納められている。金色堂には「中央壇」「左壇」「右壇」の3つの須弥壇があり、各壇に1体ずつの遺体を安置する。寺伝では中央壇・左壇・右壇の遺体が順に清衡、基衡、秀衡のものとされていたが、1950年に実施された学術調査の結果からは寺伝と逆に、左壇の被葬者が秀衡、右壇の被葬者が基衡であるとするのが定説となっている[4]。泰衡の首級(寺伝では弟の忠衡の首級とされていた)を納めた首桶は右壇に安置されていた。なお、ここで言う「左壇」「右壇」は本尊から見ての「左」「右」であり、拝観者の視点では向かって左が右壇、向かって右が左壇である。また、方位を冠して左壇を「西北壇」、右壇を「西南壇」と呼ぶ場合もある。3つの須弥壇のうち、中央壇が最初に造られ、左壇・右壇が後設であることについては研究者の間で異論がない。しかし、左右壇の増設時期については、右壇が先に造られ、左壇は後に造られたとする説と、左右壇とも同時に増設されたとする説がある。さらに後者の説については、左右壇とも基衡の時代に造られたとする説と、左右壇とも秀衡の時代に造られたとする説とがあり、いずれも定説とはなっていない。基衡は保元2年(1157年)頃に没し、秀衡は文治3年(1187年)に没しているので、各人の没年前後に右壇・左壇がそれぞれ増設されたとすると、両者の間には約30年間の開きがあることになる。右壇と左壇とを比較すると、格狭間の意匠や天井の施工方法などに差異が見られるものの、その差異は微妙なもので、これを時代の差か、工人の個性や技量の差と見なすかは意見が分かれている。

藤原4代の遺体と副葬品については、1950年に朝日新聞文化事業団による学術調査が実施された。調査は朝比奈貞一(理学博士)を団長とする調査団によって行われ、美術史のみならず、人類学者の長谷部言人、微生物学者の大槻虎男、ハスの研究で知られる植物学者の大賀一郎、地元岩手県の郷土史における先駆者として知られた社会経済史学者の森嘉兵衛などの専門家が参加し、遺体についてもエックス線撮影を含む科学的な調査が実施された。


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