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出典検索?: "中宗" 朝鮮王
中宗 李懌
李朝
第11代国王
王朝李朝
在位期間1506年9月18日 - 1544年11月28日
字楽天(ナクチョン、??)
諡号恭僖徽文昭武欽仁誠孝大王
廟号中宗
生年弘治元年3月5日
(1488年4月16日)
没年嘉靖23年11月15日
(1544年11月29日)
父成宗(次男)
母貞顕王后
王后・王配端敬王后慎氏
章敬王后尹氏
文定王后尹氏
妃嬪下記参照
子女下記参照
陵墓靖陵
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中宗
各種表記
ハングル:?? / ?? / ??
漢字:中宗 / 李懌 / 樂天
発音:チュンジョン / イ・ヨク / ナクチョン
日本語読み:ちゅうそう / り・えき / らくてん
ローマ字:Jungjong / I Yeok / Nak Cheon
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中宗(チュンジョン、ちゅうそう)は、李氏朝鮮の第11代国王である(在位:1506年 - 1544年)。諱は懌。諡は恭僖徽文昭武欽仁誠孝大王、略して中宗恭僖大王。第9代成宗の次男で、第10代燕山君の異母弟。 1494年、6歳で晋城大君(チンソンデグン)に冊封された。1506年9月2日、勲旧派の朴元宗(パク・ウォンジョン)、成希顔(ソン・ヒアン)、柳順汀(ユ・スンジョン)らがクーデターによって燕山君を廃位、追放し、18歳の晋城大君を擁立した。史上、中宗反正(チュンジョンバンジョン)と呼ばれる。中宗は勲旧派のクーデター勢力に擁立された王権の脆弱性を打開するため、燕山君に弾圧された士林派を引き入れ革新を図ったが、土地兼併禁止、均田制実施などを主張する趙光祖(チョ・グァンジョ)ら急進的な士林勢力を押さえることができず、政局は混乱に陥った。 1519年、反正功臣らは過激な士林派に反逆罪をかぶせて粛清を行い、士林派の中心人物であった趙光祖も帰郷を命じられたあと、王命により自害を強いられた。これを己卯士禍と言い、この時粛清された学者たちを後世「己卯名賢」と呼ぶようになった。1521年、己卯士禍の余波で辛巳誣獄
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