中央構造線(ちゅうおうこうぞうせん; 英: Median Tectonic Line)は、西南日本を九州東部から関東へ横断する世界第一級の断層である[1][2]。英語表記からメディアンラインやメジアンラインとも言い、略して MTL とも言う[注釈 1]。注:「中央構造線」は地下の断層の面を地上に延伸した地表トレースの線だけを指すべきだとする意見もあるが、多くの場合、断層自体を指して「中央構造線」と呼んでいるのが実情である[1]。なお本項では、地質境界の断層としての「中央構造線」だけでなく、単に中央構造線と呼ばれることもある活断層「中央構造線断層帯」についても解説している。
解説
概略中央構造線起因の谷(画像右端)が南北に走る長野県伊那地方
1885年(明治18年)にハインリッヒ・エドムント・ナウマンによりその概念が提唱され、1917年(大正6年)に矢部長克によって構造線の概念が規定された[3]。中央構造線を境に北側(大陸側)を西南日本の内帯 (Inner Zone)、南側(海溝側)を西南日本の外帯 (Outer Zone) と呼んで区別している[2][4]。一部は活断層である[4]。
構造線に沿って南北に分布する岩石は、北側(内帯側)は領家変成帯(中生代ジュラ紀の付加体が同白亜紀に高温低圧型変成を受けたもの)、南側(外帯側)は三波川変成帯(白亜紀に低温高圧型変成を受けたもの)である[2][5]。長野県には、領家変成帯と三波川変成帯が直に接しているのを確認できる北川露頭がある[6](#観光関連を参照)。しかし四国においては領家変成帯は和泉層群(和泉帯)に覆われがちとなり、構造線は和泉帯と三波川変成帯の境界となっている。領家変成帯には白亜紀の花崗岩も見られる[5][7]。なお、領家変成帯と三波川変成帯のそれぞれを覆う後期の地層の境界をなす断層も、中央構造線だと定義されている[1]。
中央構造線は、九州東部から諏訪湖(長野県)付近まではほとんど途切れずに地表トレースが認められる[8]。しかし糸魚川静岡構造線(糸静線)より東のフォッサマグナ地域では、フォッサマグナの海を埋めた新第三紀の堆積岩に覆われている。第四紀に大きく隆起している関東山地では古第三紀以前の基盤岩が露出し、その北縁の群馬県下仁田町に中央構造線が露出している[9]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}関東平野では新第三紀や第四紀の地層に覆われている。九州中部でも新第三紀後期以後の火山岩や[要出典]阿蘇山をはじめとする現在の火山におおわれている[10]。近畿南部から四国にかけては、中央構造線に沿って約360 kmにわたり活動度の高い活断層(#中央構造線断層帯を参照)が見られ[11][12]、要注意断層のひとつとされている[13]。「フォッサマグナ」も参照中央構造線とフォッサマグナの糸魚川静岡構造線が交差する諏訪湖周辺 ジュラ紀の末から白亜紀の初め(約1億4千万-1億年前)、日本列島の元となる大地はまだアジア大陸の東の縁であり、そこに中央構造線の原型となる断層の横ずれ運動が起こった[14]。横ずれ運動はイザナギプレートがユーラシアプレートに対してほぼ平行に北上したために起こり[14][15]、より南にあった北海道西部・東北日本・西南日本外帯に当たる部分が北上した[14]。この運動により、それまで離れて存在していた領家変成帯と三波川変成帯が大きくずれ動いて接するようになった[7]。この時形成されたのは古期中央構造線[16](古中央構造線[17]、古MTL[17]とも)と呼ばれている。また、この断層運動の時期は鹿塩時階[注釈 2]と呼ばれており[4][5]、白亜紀中期にあたると考えられている[4]。領家変成帯に属する岩石は衝上断層によって南側に移動し、三波川変成帯に属する岩石に乗り上げた[4]。断層の角度は極めて低く[16]、水平に近かったとも考えられている[17][注釈 3]。 白亜紀後期(約7千万年前)は中央構造線の活動が最も顕著であったと考えられている。この頃イザナギプレートが約45度の角度で北上してユーラシアプレートの下に潜り込んでおり、このため中央構造線は左横ずれ運動を起こし、その北側では岩盤が破壊されて地層が堆積し和泉層群を形成した[18]。 以後、断層運動は変位を繰り返し、新第三紀から第四紀にかけての時期に現在と同じ右横ずれ運動となった。「中央構造線の再活動」または「地質境界である中央構造線に平行して出現した断層」としてとらえられているこの断層運動[19]は、新期中央構造線[16](新中央構造線[17]、新MTL[17]とも)と呼ばれている。
形成