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やノートページでの議論にご協力ください。中央大学硬式野球部中央大学のユニフォーム(鍵谷陽平)
加盟団体東都大学野球連盟
本拠地東京都八王子市東中野741‐1 中央大学多摩キャンパス内硬式野球場
創部1930年
監督清水達也
公式サイト ⇒公式ウェブサイト
リーグ戦成績
リーグ成績1部リーグ優勝 25回
全日本大学野球選手権大会
出場回数6回
最高成績優勝 3回
明治神宮野球大会
出場回数5回
最高成績優勝 1回
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中央大学硬式野球部(ちゅうおうだいがく こうしきやきゅうぶ、英: Chuo University Baseball Club)は、東都大学野球連盟に所属する大学野球チーム。中央大学の学生によって構成されている。学内での正式名称は中央大学学友会体育連盟硬式野球部。主に中央大学多摩キャンパス硬式野球場を拠点に置いている。 なお、中央大学には1910年(明治43年)頃から学生有志の野球チームがあり、明治大学の有志チームとも対戦していたが[2]、その後校内の野球熱は冷却し大正期以降の野球ブームに乗り遅れてしまった[3]、とされている。東都大学野球連盟の設立経緯に関しては該当記事を参照。 1930年(昭和5年)、飛田穂洲(顧問)、島田徳(部長)、山岡鎌太郎(監督)、安芸祝(アシスタント)の指導下で部員11名により学校公認の初の野球部が正式に発足。その後、日本大、専修大、國學院大、東京農大とともに新しい五大学野球連盟(現 東都大学野球連盟)を結成した[4]。 草創期から戦後にかけて日大や、特に専大と常に優勝を争ってきた。専大とは1930年代 - 1940年代にかけて2強時代を形成し、その間、それぞれの優勝回数は専大15回・中大13回にのぼる(日大は4回)。戦前は、打撃陣では中軸を担った加藤正二(のち中大監督)や深見安博ら、投手陣では小嶋仁八郎やノーヒットノーラン(1941年秋、農大1回戦)を達成した石原秀夫らが活躍した。 1947年(昭和22年)から5回実施された、東京六大学、旧関西六大学、そして東都大学の3連盟間で王座を決する全国大学野球王座決定戦の第2回大会(1948年)と第3回大会(1949年)に出場し、第2回は法政大が優勝し、第3回は3校優勝預かりという結果になった。 1953年(昭和28年)、伊藤芳明(通算21勝13敗)・中野昇二(通算12勝7敗)・鈴木隆の2年生投手陣や2年穴吹義雄ら打撃陣の活躍で春季リーグ優勝。続く第2回全日本大学野球選手権大会準決勝で関西学院大を8?5で下し、決勝でエース小島訓一や2年大沢啓二らの立教大に2-6で敗退。
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