中央区立日本橋小学校
中央区立日本橋小学校
(2018年2月28日撮影)
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分5.18秒 東経139度46分53.02秒 / 北緯35.6847722度 東経139.7813944度 / 35.6847722; 139.7813944
中央区立日本橋小学校(ちゅうおうくりつ にほんばししょうがっこう)は、東京都中央区日本橋人形町一丁目にある公立小学校。2020年5月1日時点で、14学級・391名在籍。校歌は「つつじの学校 日本橋」。 中央区に16ある区立小学校の一つ。当地に所在した中央区立東華小学校と、小伝馬町に所在した中央区立十思小学校が閉校の上、統合されて、新設の日本橋小学校として、1990年に開校した。統合は、児童数の減少に伴う区立学校の適正配置に関する計画の実施であり、統合初年度の新入生は24名であったが、その後、学区内の都心回帰・住宅開発の流れから、児童数は増加に転じている。 中央区内に21ある選挙の投票所の一つとして用いられている[1]。 本校の校舎は、地上9階・地下2階の建物の一部であり、小学校としては地下1階から地上5階までを使用している。同じ建物には、日本橋図書館(6・7階部分)、日本橋社会教育会館(地下2階、8・9階部分)が複合して同居しており、地下1階の日本橋小学校温水プールは、一般にも公開されている。また、同建物内に中央区立日本橋幼稚園
概要
校舎・敷地沿革エレベーター内フロアガイド(2022年撮影)
本校の敷地は、江戸時代末期には姫路藩酒井氏の藩邸があり、明治初頭(明治4年から6年)には西郷隆盛の屋敷があった場所である[2]。明治34年から本校の開校まで、本校の前身の一つ、東華小学校の敷地となる。もう一つの前身校である十思小学校の跡地は、現在は十思スクエアとして活用されている。 平成25年2月にまとめられた調査報告書[3]により、児童数の将来推計に基づき、日本橋地区では、近隣の中央区立有馬小学校・中央区立久松小学校とともに、児童の目立つ増加が見込まれるものとして、普通教室の増加のための改築がなされることとなった。もともと校庭としてのスペースが限られていた本校は別棟の建物の増築等による対応ができず、複合建物として、これまでの校舎としての使用フロアに接続し、それまで日本橋図書館の一部として用いられていた5階部分について小学校校舎として用いるための改築がされ、教室を増加させた。5階・6階に所在した図書館が6階・7階に移転し、7階から9階にあった社会教育会館は、8・9階と地下2階に所在することとなった。 年度児童総数1年生2年生3年生4年生5年生6年生教員数職員数 通学区域は、日本橋本町三丁目(6?11番)・四丁目(9?15番)、日本橋小伝馬町、日本橋大伝馬町、日本橋堀留町一丁目・二丁目、日本橋小舟町、日本橋富沢町、日本橋人形町一丁目・二丁目・三丁目、日本橋小網町(7?19番)、日本橋蛎殻町一丁目(7?16番)。 日本橋人形町二丁目15?20番及び32?36番は有馬小学校と、日本橋堀留町二丁目1番・2番・8?10番、日本橋富沢町、日本橋人形町二丁目21?31番・37番、日本橋馬喰町一丁目・二丁目は久松小学校とのそれぞれ調整区域として、いずれの学校への進学も可能となっている。
生徒数の増加と改築
小学校の児童数と教員数[4]
平成27年338人62人56人54人51人64人51人21人2人
平成28年335人52人62人56人53人50人62人28人4人
平成29年334人58人50人64人56人55人51人20人3人
平成30年359人65人59人54人68人58人55人19人3人
令和元年388人84人64人60人54人66人60人21人3人
令和2年391人74人83人59人60人51人64人21人4人
令和3年397人73人73人80人57人61人53人22人4人
令和4年426人85人74人72人77人57人61人21人3人
令和5年445人70人90人72人77人78人58人21人4人
通学区域
沿革
旧 十思小学校
1872年(明治5年)- 明治政府太政官より、学校に関する基本法制として、学制が発布された。
1877年(明治10年)12月22日 - 第一大学区第一中学区十六番小学十思学校として開校[5]
1886年(明治19年)11月17日 - 校舎の類焼を受けて有馬小学校内にて授業をしていたものの、本校を廃止して有馬小学校に合併
1892年(明治27年)4月14日 - 有馬小学校の分校として開校
1897年(明治30年)5月8日 - 地元有志により校舎を新設し、有馬小学校の分校を廃止し、高等科を併置し、東京市日本橋区十思尋常・高等小学校として再興
1905年(明治38年)3月 - 女子の児童を、上町女子尋常小学校に分離
1908年(明治41年)3月 - 高等科を廃止し、東京市十思尋常小学校と称する
1916年(大正5年)7月6日 - 上町女子尋常小学校と合併し、共学に
1918年(大正7年) - この年の学級数は21、児童数は男子524名・女子553名[6]
1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災により校舎焼失。10月6日からバラックにて授業再開
1928年(昭和3年)12月 - 関東大震災後の復興事業として、鉄筋コンクリート造の校舎(日本橋小伝馬町・現 十思スクエア・東京都選定歴史的建造物)建設[7]
1941年(昭和16年)- 国民学校令にしたがって、日本橋区立十思国民学校と改称
1944年(昭和19年)8月31日 - 学童集団疎開(埼玉県比企郡野本村・西吉見村)(?昭和21年3月)
1947年(昭和22年)4月1日 - 東京都中央区立十思小学校と改称。昭和25年まで久松中学校が校舎に同居
1952年(昭和27年) - この年の学級数は12、児童数は男子335名・女子267名。この後、昭和52年までに、6学級、男子76名・女子74名に減少。
旧 東華小学校
1901年(明治34年)9月8日 - 東京市日本橋区東華尋常小学校として開校[8]
1904年(明治37年)4月 - 高等科を併置する
1908年(明治41年)4月 - 東京市東華小学校と改称する
1918年(大正7年) - この年の学級数は17、児童数は男子511名・女子513名[6]
1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災により校舎焼失
1929年(昭和4年)5月 - 耐震耐火建築の校舎の復興
1941年(昭和16年)- 国民学校令にしたがって、日本橋区立東華国民学校と改称
1944年(昭和19年)8月29日 - 学童集団疎開(埼玉県入間郡毛呂山町)(?昭和21年3月)[9]
日本橋小学校
1990年(平成2年)