ドイツの政党中央党
Zentrumspartei
党首クリスチアン・オッテ
中央党(ちゅうおうとう、独:Zentrumspartei)は、ドイツのカトリック系政党。
1870年に創設され、帝政期およびヴァイマル共和政期ドイツの議会で主要政党の一つとして活躍した。現在も存在はしているが、連邦議会においては1957年以降選挙による議席獲得はない。ただ連邦議会におけるキリスト教民主同盟とキリスト教社会同盟は、人脈的にこの政党の流れを汲んでいる。同じ党名で続く政党としてはドイツ現存最古の政党である[10][注釈 1]。
党史
創設と党の立場中央党創設の際のポスター。写真は創設者たち。左からルートヴィヒ・ヴィントホルスト(ドイツ語版)、アドルフ・グレーバー(ドイツ語版)、ヴィルヘルム・エマヌエル・フォン・ケテラー(ドイツ語版)
1870年12月13日にプロイセン王国議会の議員48名により創設された。ドイツ帝国成立後の新しい帝国議会においては1871年3月3日に議員63名により結成された。構成員は大多数がカトリックであり、カトリック政党の側面が強かったが、創設当初から少数ながらプロテスタントもおり、綱領の上では宗教的自由を擁護する政党とされているだけでどの宗派を擁護するとは書いていなかった[12]。とはいえ実質的には自由主義の反カトリック攻勢に対抗してカトリック教会を守り、カトリック住民の利益を代弁するために創設された党だった[13]。
なお党名の「中央(Zentrum)」とは、保守派と自由主義派の中間に立つという意味だった[13]。その名の通り帝政期の中央党は与党と野党の間で揺れ動くことが多かったため「機会主義政党」とも呼ばれた[13]。
そのような立場に立ったのは第一に中央党がカトリックという一点のみを共通項として団結している党であり、党員には企業家や大土地所有者から手工業者、農民、労働者まで諸階層があったためである。そのため同党はその時々の政治情勢に応じてどの階層に重点を置くかで政治的立場を変化させた[13]。第二にプロテスタント国家プロイセンを中枢とするドイツ帝国においてカトリックは劣位に置かれる存在であり、文化闘争期には激しい迫害にも晒されたので、体制批判的な姿勢を取らざるを得なかったが、同時にだからこそ体制支持の姿勢を示すことでカトリックのハンディキャップを埋める必要があったことである[13]。
思想面でも中央党は自由主義と保守主義の混合物だった。国家の不必要な干渉に反対し個人・少数派の権利を擁護しようとする点では中央党は自由主義であった。自由主義的な立憲主義には当初反対したものの、後には立憲主義が多数派に抗して少数派を保護することに役立つことに気づいて立憲主義を擁護するようになった[14]。他方でカトリックの生活信条は伝統と権威に根差す物であり、特にドイツ・カトリックの場合はロマン主義と結びついていた。ロマン主義は本質的に保守主義であり、近代合理主義に対して保守的反逆を行った[15]。中央党は反ブルジョワ的な高度資本主義に敵対する見解も有したが、その視角もあくまで中世主義と宗教の精神的性格という伝統主義にあった[16]。このように中央党は相いれない諸要素や諸潮流を併せ持つ多元的・多面的であると同時に異質的な党であり、しかし政党であるためにこれらを調和・均衡させようとした。左右の均衡を保ちながら左右両方の投票者を吸収し、カトリック教会の利害の下に統一させようとする政党だったといえる[15]。 中央党結成によりカトリックの全ドイツ的な政治的集合体ができると、自由主義勢力やそれと連携する帝国政府との対立が鮮明化した。また反プロイセン的邦国分立主義や反帝国政府の意識が高まりを見せた。カトリックは反プロイセン意識が強い南ドイツ・南西ドイツの邦国に多かったためである。またこれらの地域のカトリックは農民・手工業者・職人が多く、彼らは資本主義経済の進展で不利益を受ける立場だったので、政府の工業化推進政策に不満を持っていた[17]。 帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクは、カトリックの反政府活動、またカトリックを媒介として反政府勢力がフランスやオーストリアと結託することを恐れ、カトリック教会やその信徒へ激しい弾圧を加えた(文化闘争)[17][18]。ビスマルクがカトリック弾圧を決意したきっかけの一つは中央党の結成にあった[18]。 カトリック教会弾圧立法が次々と制定される中、1876年までにはプロイセンのカトリック司教全員が官憲に逮捕されるか国外追放されるかした。同様に1880年までにはカトリック司祭職4600人のうち1100人までが空席にされた[18]。 カトリックたちの抵抗運動は教会と中央党が主体となった。プロテスタントからの自己防衛のために中央党の結束力は固まっていった[19]。カトリックの80%が中央党に投票し[19]、1873年のプロイセン王国議会下院選挙とドイツ帝国議会選挙では中央党が躍進した[18]。しかしカトリック以上に厄介な社会主義勢力の台頭により1870年代末からビスマルクはカトリックとの和解を図るようになり、弾圧を緩めた。
文化闘争への抵抗