中城ふみ子
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中城ふみ子
帯広川を散策するふみ子。1951年(昭和26年)撮影。
誕生野江富美子
1922年11月25日
北海道河西郡帯広町
死没 (1954-08-03) 1954年8月3日(31歳没)
北海道札幌市札幌医科大学附属病院
職業歌人
言語日本語
国籍 日本
最終学歴東京家政学院
活動期間1949年 - 1954年
代表作歌集「乳房喪失」
主な受賞歴第1回「短歌研究」五十首詠
影響を受けたもの

岡本かの子川端康成葛原妙子与謝野晶子

影響を与えたもの

寺山修司

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中城 ふみ子(なかじょう ふみこ、1922年大正11年)11月25日〈家族の記録によれば11月15日〉 - 1954年昭和29年)8月3日)は、日本歌人北海道河西郡帯広町(現・帯広市)出身。旧姓は野江富美子、妹の野江敦子も歌人である。中城は婚姻後の姓で、離婚後も中城を名乗った。戦後活躍した代表的な女性歌人の一人で、寺山修司とともに現代短歌の出発点であると言われている。.mw-parser-output .toclimit-2 .toclevel-1 ul,.mw-parser-output .toclimit-3 .toclevel-2 ul,.mw-parser-output .toclimit-4 .toclevel-3 ul,.mw-parser-output .toclimit-5 .toclevel-4 ul,.mw-parser-output .toclimit-6 .toclevel-5 ul,.mw-parser-output .toclimit-7 .toclevel-6 ul{display:none}
人物

中城ふみ子は1922年(大正11年)11月、北海道河西郡帯広町で生まれた。婚姻前の本名は野江富美子である。地元帯広の帯広尋常高等小学校を卒業後、北海道庁帯広高等女学校に進学する。少女時代のふみ子は文学作品を読みふける文学少女であった。また、帯広高等女学校時代から短歌を詠み始めた。高等女学校を卒業後は上京して、東京家政学院に進学する。東京家政学院時代のふみ子は恵まれた教育環境、良き友人らに恵まれて青春時代を謳歌する。その中で学院で文学を教えていた池田亀鑑から、和歌の薫陶を受ける。

青春を満喫した東京家政学院時代が終わると、実家から即座にお見合いの話が持ち込まれ、婚約が成立したもののふみ子の意志で破棄をする。しかし1942年(昭和17年)、鉄道省の札幌出張所に勤めていた中城博と婚姻することになった。中城博とは性格が合わず、結婚当初から大きな不満を抱いていたふみ子であったが、生後3か月で亡くなった次男の徹を含め、4人の子宝に恵まれた。

夫・中城博はやがて業務上の不正行為が原因で出世コースから外れ、その上、愛人を作るようになった。夫婦仲の亀裂は徐々に深刻化していき、ふみ子は短歌に生きがいを見い出すようになる。中城博は1949年(昭和24年)8月には国鉄を退職し、ふみ子の実家である野江家の援助を受けて帯広で高校教師の職に就くもすぐに退職してしまい、その後、建設会社で働き出したもののそこでも問題を起こし、結局1950年(昭和25年)5月に夫婦別居となった。

戦後、ふみ子は短歌結社に参加し、自作の短歌を発表していた。1949年からは帯広の「辛夷短歌会」に参加し、そこで大森卓と出会う。大森は重い結核にかかっていたが短歌に強く傾倒しており、ふみ子は短歌に傾倒する大森に激しい恋愛感情を抱き、大きな影響を受けることになる。大森は1951年(昭和26年)9月に亡くなるが、亡くなった大森に寄せたふみ子の挽歌はその内容が高く評価されている。翌10月には別居中の夫・中城博と正式に離婚となる[1]

ふみ子は夫・中城博との別居前後から1954年8月に癌で亡くなる直前まで、様々な男性との浮名を流すようになる[2]。ふみ子はその自らの生と性を歌に詠み込んでいった[3]。一方で子どもたちに対しても深い愛情を注ぎ続け、子どもを詠んだ短歌もまた評価が高い[4]。しかし短歌に情熱を注ぎ、地元北海道では名の通った歌人となり始めていたふみ子は乳がんにかかり、左乳房の切除手術を受けるがその後再発する[5]

乳がんの再発後、ふみ子は死を覚悟した。ちょうどその頃、日本短歌社の「短歌研究」が読者詠の公募である五十首応募を実施した。乳がん治療のため札幌医科大学附属病院に入院することになったふみ子は、入院直後、五十首応募に投稿した。また迫りくる死を前にして自作歌集の出版を企図し、川端康成に自作集のノートと歌集序文の執筆依頼の手紙を送る。

結局、五十首応募の特選を獲得した上に、ふみ子から送られた自作集のノートを高く評価した川端康成が角川書店に強く推薦したことにより、華々しい全国歌壇デビューを飾った。ふみ子の作品はこの当時の主流であった平明な日常詠の短歌からかけ離れたものであったため、既存歌壇から激しい反発と戸惑いを持って迎えられたが、その一方で若手歌人を中心とした熱狂的な支持の声が巻き起こった。


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