この項目では、大坂と西宮を結ぶ街道について説明しています。京と下関を結ぶ街道については「西国街道」をご覧ください。
旧中国街道に立つ道標(兵庫県尼崎市西本町八丁目)
中国街道(ちゅうごくかいどう)は、大坂と西宮を結ぶ街道。別名は中国路(ちゅうごくじ)、浜街道(はまかいどう)。
大坂城下高麗橋を起点に、難波橋、十三の渡し、神崎の渡し、大物浦、尼崎城下などを経由して、西宮本町で西国街道に合流する。なお、西国街道を中国街道・中国路と称することもある[1]。目次 記録を遡れるのは、中世までであるが、近世になると、大坂と西国との物資の流通の要となる。往時の街道沿線には、要所要所に道標が設置されていた。現在では、区画整理の結果、その街道筋を忠実に辿ることは困難になっている。しかし今でも、それら道標のうち幾つかが土中から発掘されるなどして、往時の姿を偲ばせている。大名行列が通ることもあった。 [脚注の使い方]
1 歴史
2 沿線
3 脚注
4 関連項目
歴史
沿線 遊女塚(尼崎市神崎町) 残念さんの墓(長州藩士・山本文之助の墓)
高麗橋 - 大阪市中央区高麗橋
難波橋 - 大阪市北区中之島
綱敷天神社 - 大阪市北区神山町
鶴乃茶屋跡 - 大阪市北区茶屋町
十三の渡し - 大阪市淀川区新北野
神崎の渡し[2] - 尼崎市神崎町
遊女塚 - 尼崎市神崎町、梅ヶ枝公園
1692年(元禄5年)正月の年紀銘に加え、遊女5人の名があったと言われている。讃岐国へ流される途中当地に立ち寄った法然に念仏を授けられ、川に身を投げた遊女達の亡骸を葬ったものと伝えられている[3]。
残念さんの墓 - 尼崎市大物町、大物公園
長州藩士・山本文之助の墓。1864年(元治元年)の蛤御門の変にて京都からの帰途、大物で捕らえられ自決した。死に際に「残念、残念」と叫んだとされ、幕府に反感を持つ民衆の墓参りが絶えず「残念さん」と呼ばれるようになった[4]。
大物主神社 - 尼崎市大物町
大物崩れ戦跡 - 尼崎市大物町
尼崎城跡 - 尼崎市南城内
琴浦神社 - 尼崎市琴浦町
雉ガ坂伝説地[5] - 尼崎市大庄西町
岡太神社 - 西宮市小松
鳴尾の孤松(ひとりまつ) - 西宮市里中町
長蘆寺 - 西宮市鳴尾町
脚注
^ 松村明監修『大辞泉』小学館(1998年)
^ 神崎の渡し <ひょうご歴史の道 ?江戸時代の旅と名所?>
^ ⇒遊女塚 - 尼崎市文化財収蔵庫
^ ⇒残念さんの墓 - 尼崎市文化財収蔵庫
^ ⇒雉ガ坂伝説地 - 尼崎市文化財収蔵庫
関連項目
山陽道
西国街道
国道43号 - 尼崎城下の区間(東本町交差点 - 貴布祢交差点間)は中国街道を拡幅・利用している。
更新日時:2019年11月23日(土)16:07
取得日時:2020/05/03 14:45