中国では、トノサマバッタによる大規模な農被害、いわゆる蝗害(蝗災)が天災の一つに数えられている。その存在は多くの資料に頻繁に見られ、地域規模ですべての食料を食い尽くしてしまう。これが民衆に与える被害は甚大なもので、餓死者が大量発生するのはもちろん、人肉を食うといった事態も多発した。国家や地方政権に与える影響も当然大きく、それまで続いていた戦争が勝敗・優劣に関係なく停止したり、時に民衆暴動が起こり王朝が崩壊する場合もあった。本記事ではこのような中国蝗災史について解説する。 中国では昔から、蝗災(蝗害)、水災(水害)、旱災(旱魃)が3大災害の扱いを受けている[1]。そもそも【蝗】の字は農作物を襲う蝗の惨害をどう防ぐか、救うかに「皇」帝の命がかかっているというので虫へんに皇と書くとする説がある[2]ほどで、政治と蝗害は密接に関わってきた。『貞観政要』巻第八、務農第三十にある唐の太宗が蝗を飲み込んで蝗害を止めたという伝説にも、その関係性が表れている。 ケ雲特
目次
1 概要
2 歴史
2.1 殷周
2.2 漢代
2.3 魏晋南北朝
2.4 唐代
2.5 五代十国
2.6 宋代
2.7 元代
2.8 明代
2.9 清代
2.10 近現代
3 出典
4 原文
5 参考文献
概要
明末の農学者徐光啓は著書『除蝗疏』(ウィキソース)の中で「政府が非常時の食を蓄えておかずに飢餓の被害が広がったとすれば、それは人災というべきものである。飢餓の主因は3つ、洪水、旱魃、バッタである(國家不務畜積、不備凶饑人事之失也。凶饑之因有三、曰水、曰旱、曰蝗)。」と述べている。旱魃の後には蝗害が発生しやすく、農作物の被害を一層大きくする。 周代の詩篇『詩経』には「既方既?、既堅既好。不?不莠、去其螟?。及其?賊、無害我田穉。田祖有神、秉?炎火」とバッタの駆除の様子が詠われている[4]。 紀元前175年(文帝6年)4月、旱魃と蝗害が起こっている(『漢書』文帝紀[5])。 この他に『後漢書』志第十五には建武22年、23年、28年、29年、30年、31年、中元元年、永平4年、15年、永元8年、9年、永初4年、6年、7年、元初元年、2年、延光元年、永建5年、永和元年、永興元年、2年、永壽3年、延熹元年、熹平6年、興平元年、建安2年と連綿として蝗害が起きた様子が綴られている。 後漢の思想家王充は著書『論衡』巻16の中に「虫食穀者、部吏所致」と記載している[6]。また蔡?は「蝗者、在上貪苛之所致也」と自説を述べている[7]。 東晋永嘉4年(310年)、幽并司冀秦雍六州で蝗害が発生。建武元年(317年)にも司冀并青雍の五州に蝗害が発生したとする。(『晋書』) 高宗文成帝の時代、癸亥、営州で蝗害が発生したので、詔を下し、官庫を開いて窮民を救済した旨の記述がある(『北史』巻二・魏本紀第二)。 623年の記録として「夏にバッタが発生し、作物を食い荒らして民を苦しめた。儒学者は、祭礼を怠っているから旱魃が起こり、魚貝が害虫に変わったのだと主張した」[原文 1]と書かれている(『新唐書』[8])。 628年(貞観二年)、首都長安に旱魃が起こり、飛蝗も大発生した。『貞観政要』には皇帝太宗自身が視察を行った様子が書かれている[9][10]。 715年、淮河流域で「羽音、風雨の如し(聲如風雨)」というレベルで飛蝗が大発生し、当時の宰相姚崇は地元の官僚(?州刺史)倪若水に命じてその駆除を実施し[11]、その量は14万石(約2万5千立方メートル)に上っている[12]。 737年、現在の河北省?台市に飛蝗が発生したが、鳥がこれを捕食したために被害は抑えられている(『新唐書』[8])。 784年4月、「春からの大規模な旱魃で麦が枯れ、苗が育たず、関中でバッタが発生した」[原文 2]と記録されている[13]。 785年は、「夏にバッタが発生し、東は海から西は黄河の上流まで、10日以上にわたって群れが天を覆った。草木や家畜に群がり、死骸が道を塞いだ」[原文 3]と記されている(『旧唐書』[14])。 839年6月、「天下旱、蝗食田」(旱魃と蝗害)との記録がある(『旧唐書』[14])。この年の前後は蝗害が酷かったらしく、中国の記録ではないが、慈覚大師(円仁)著の『入唐求法巡礼行記』の開成5年(840年)の箇所には「青州(現在の山東省付近)ではここ3、4年蝗害が起こっている(正月二十一日)」「いなごの群れが穀物をすべて食い尽くし路上足の踏み場も無い(八月十日)」などの記録がある[15][16]。 907年、後梁で「許、陳、汝、蔡、潁の五州でバッタが発生したが、鳥の大群がこれを皆食べた」という蝗害が起こっている[17]。 928年夏六月、後唐で「バッタが天を覆い、昼から暗くなった」[原文 4]という蝗害が起こっている(『十国春秋』呉越忠懿王世家)。 960年から961年、蝗害が発生しており、その後も986年、992年、996年、1016年、1034年、1098年、1165年に蝗害が起こっている(『宋史』[19])。 南宋時代に理学者としても活躍していた朱子は、晩に火を焚いて飛蝗を誘い込む方法を提案している[20]。 1262年を始めに、しばしば蝗害が報告されている。特に1270年の被害は大きく、南京(現在の開封)、河南諸路が襲われている(『元史』[21])。また、1333年には長雨による黄河の氾濫、蝗害、旱魃と言った天変地異が頻発し、そのためにクマネズミが欧州へ移動したとする説がある[22]。 また、『大元聖政国朝典章』には蝗害予防の方法が記されており、村(当時は社と記した)単位での管理や予防が共同体約定と言う形式で事実上義務化されていたことがわかる。
歴史
殷周
漢代
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