中国法制史(ちゅうごくほうせいし)では、古代から現代までの中国の法制史について説明する。
成文法は春秋時代の子産らに始まる[1]。唐代に律令体制が完成し、中華法系として東アジアに波及した。清末民初に近代法が導入され、現代の中華人民共和国法や台湾法に至る。 中国神話においては、三皇五帝の時代に皋陶という司法官がおり、人の罪を見抜く?豸という神獣を利用して裁判したという[2]。?豸は前近代中国において法の象徴とされ、司法官の冠である「?豸冠」などに取り入れられた。 紀元前11世紀初頭、殷が滅び、周が成立した[3]。周代は、紀元前770年の成周(現在の河南省洛陽市)遷都以前を西周、それ以後を東周と呼び分け、東周は紀元前403年を境に春秋時代と戦国時代に分かれる[3]。東周は周王の権威が失墜して諸侯国が独自に政治を行い、強国が弱国を滅ぼしていく時代だった[3]。春秋時代の200以上の諸侯国が、戦国時代には七つの強国(韓・魏・趙・斉・燕・楚・秦)といくつかの小国(魯・鄭・宋・衛など)にまとまった[3]。春秋戦国時代(前770年 - 前221年)諸国が相争う中で、富国強兵を目指し、君主権力を強化して中央集権化を進める手段として、厳格に運用できる成文法が必要とされた[3]。春秋時代の晋では、文公のときに、趙盾(趙宣子)が国政改革を行い、刑書を作成したとされる[3]。『春秋左氏伝』文公6年(前621年)条は、「法制を定め、法が罪の軽重に応じるように修定し、裁判を処理して……晋の国内に配布して常法とした」と記している[4]。この春秋時代の法は、鉄器あるいは青銅器の鼎に銘文として記された「刑鼎」として施行されたと考えられる。鄭の宰相子産は前536年に刑鼎を鋳造した[4]。 『晋書』刑法志(唐代648年に編纂)には、戦国時代の魏の文侯のとき、実務を掌握していた李?が諸国の法を選択編集し、体系性をもつ刑罰法典の始まりであるとされる『法経』六篇を作ったと伝えられる[4]。財産と人命・身体に対する侵害の罪を定める「盗法」と「賊法」、被疑者の逮捕・拘留などの刑事手続に関する「囚法」と「捕法」、雑多な犯罪を定める「雑法」、科刑上の諸原則の総則である「具法」の6篇から構成される[4]。
律令体制以前
?豸の神話(三皇五帝)
成文法の始まり(春秋時代)
『法経』六篇と『九章律』(戦国時代と秦代・漢代)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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