中国法制史
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法を司る神獣・?豸.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 歴史学/東洋史

中国法制史(ちゅうごくほうせいし)では、古代から現代までの中国法制史について説明する。

成文法春秋時代子産らに始まる[1]唐代律令体制が完成し、中華法系として東アジアに波及した。清末民初近代法が導入され、現代の中華人民共和国法台湾法に至る。
律令体制以前
?豸の神話(三皇五帝)

中国神話においては、三皇五帝の時代に皋陶という司法官がおり、人の罪を見抜く?豸という神獣を利用して裁判したという[2]。?豸は前近代中国において法の象徴とされ、司法官のである「?豸冠」などに取り入れられた。
成文法の始まり(春秋時代)

春秋戦国時代前770年 - 前221年)諸国が相争う中で、富国強兵を目指し、君主権力を強化して中央集権化を進める手段として、厳格に運用できる成文法が必要とされた[3]。春秋時代のでは、文公のときに、趙盾(趙宣子)が国政改革を行い、刑書を作成したとされる[3]。『春秋左氏伝』文公6年(前621年)条は、「法制を定め、法が罪の軽重に応じるように修定し、裁判を処理して……晋の国内に配布して常法とした」と記している[4]。この春秋時代の法は、鉄器あるいは青銅器のに銘文として記された「刑鼎」として施行されたと考えられる。の宰相子産前536年に刑鼎を鋳造した[4]
『法経』六篇と『九章律』(戦国時代と秦代・漢代)

晋書』刑法志(648年に編纂)には、戦国時代の魏の文侯のとき、実務を掌握していた李?が諸国の法を選択編集し、体系性をもつ刑罰法典の始まりであるとされる『法経』六篇を作ったと伝えられる[4]。財産と人命・身体に対する侵害の罪を定める「盗法」と「賊法」、被疑者の逮捕・拘留などの刑事手続に関する「囚法」と「捕法」、雑多な犯罪を定める「雑法」、科刑上の諸原則の総則である「具法」の6篇から構成される[4]。また同じく『晋書』刑法志は、の宰相となった商鞅が『法経』を「律」と改称して受け継ぎ、商鞅変法と呼ばれる国政改革を断行したことと、前202年の前漢創設時に蕭何が、秦の律に「事律」と総称される興律・厩律・戸律の3編を加えて『九章律』と呼ばれることになる9篇の法を作ったと記している[4]

しかし『法経』と『九章律』の実在性には疑問がもたれていた[5]。前漢の『史記』や後漢の『漢書』には『法経』編纂の記載がなく[5]、蕭何の伝記である『史記』蕭相国世家には「九章」の語も3編の増加の記事もない[5]。『法経』がはじめて現れるのは『晋書』である。けれども、戦国時代の秦の律を伝える『睡虎地秦簡』には、戦国時代の魏の法律が含まれている[5]。秦の律と魏の法律に何らかの関係がある以上、『法経』の存在は否定できない[5]

また、『睡虎地秦簡』は、戸口・軍役・租税徴収・穀物管理など、行政に関する雑多な規定を中心としている[5]。蕭何が加えた事律も、行政運用に関する規定が主体であると見られている[5]前206年の秦の滅亡時に、首都咸陽の文書庫から、法令・戸籍・行政の帳簿などを確保したとされる蕭何が、基本となる刑罰法規に多数の行政規定を付け加えて法典にまとめ、これを前漢の創設時に発布したと考えることも可能である[5]

『史記』や『漢書』によれば、秦は法家商鞅韓非子の影響のもと、厳格な法と刑を定めた。これに対し、前漢を創設した劉邦は「法三章」を約束した[5]。「法三章」とは、墨家の法の原則である「人を殺した者は死刑に処する。人を傷つけた者は肉刑に処する」という二文に「その他の罪を犯した者は、軽重に応じた刑に処する」という一文を付け加え、穏当な刑を定める法の制定を約束したものである[6]。墨家は、劉邦の時代に広く流布していた[6]。秦は魏の刑罰法典を継承・発展させるとともに詳細な行政規定の立法を進めており[6]、前漢初期に蕭何がそれを断片的にまとめ、さらに立法が蓄積されて、漢の法が形成されたことは確かである[6]

秦や漢で法典が形成されていたかは、法の全体像が不明であるため分からない[6]。しかし、上記の『睡虎地秦簡』や後述の『張家山漢墓竹簡』といった出土史料に含まれる行政文書や法令は、高度な法律的思考の産物であるといえ、その背後に体系的な法律(法典)が存在していたことは疑いない[6]。前漢中期には、董仲舒儒教経典から判例を抽出する「春秋決獄」を提唱したともいう[7]
『張家山漢墓竹簡』中の『二年律令』(前漢初期)

張家山漢墓竹簡』は、湖北省の張家山にある前漢時代の墓から出土した1236枚の竹簡であり、その中の526枚に27種の「律」と1種の「令」が残され、表題簡に『二年律令』と記されていた[8]。『二年』とは、前漢の第2代皇帝恵帝の没後、その母の呂后が摂政をしていた時期の2年目である前186年(呂后2年)を指すと考えられる[8]。漢の法ではあるが、漢の法は秦の法に改定を加えたものであり、しかも前漢の創設からわずか16年後のものであるので、多くは秦の法と同じと考えられる[8]。『二年律令』の篇目の中に、『法経』と同じ、「賊律」「盗律」「具律」「捕律」、並びに蕭何が加えた3編のなかの「戸律」「興律」がみえることが注目される[8]。蕭何がそれを集約して漢の法にまとめたという経緯が反映されていると考えられる[8]

籾山明によれば、漢の令は、以下の3つに分類される[9]
「令甲」「令乙」「令丙」などの「干支令」と呼ばれる年代ごとに単行指令をまとめたもの[9]

使用する官庁ごとに単行指令をまとめたもの[9]

「功令」「金布令」「宮衛令」などのように内容ごとにまとめたもの。

このように単行指令をその形式のまま集めて、「○○令」という篇目をつけるシステムが確立したが、これは後述の律令と異なり、体系的な法典の一部を構成するものではない[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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