中国朝鮮関係史(ちゅうごくちょうせんかんけいし)は、中国と朝鮮との関係の歴史である。なお、どの範囲を中国や朝鮮とするかについても議論があるが、その点についても説明する。また、遼・金・元・清など中国の征服王朝も含める。
古代から現代に至るまで、朝鮮は中国の圧倒的に大きな影響を受け続けてきた。政治的には、朝貢冊封関係を続け、独自の元号を持つことなく中国のそれを使い、漢姓漢名だった。文化的には、朱子学、小中華主義などがある。
紀元前漢四郡
朝鮮史の始期から、中朝間には深い関係があった。70万年前、朝鮮半島・満州地域に人が住み始める[1]。はじめて朝鮮に統一的な勢力を形成したのは、神を信じる部族とクマを崇敬する部族の二つの部族だったという。そして両者が連合して壇君を戴き、檀君朝鮮を建国したという[2]。壇君という栄光の王が実在した、あるいは檀君が築いたとされる王国檀君朝鮮が存在したという証拠はほとんどなく、壇君が実在の人物だった可能性はゼロに近い、と研究者は語っている[3]。
周の武王が箕子を朝鮮侯に封じ、箕子が殷の遺民を率いて東方へ赴き建国したのが箕子朝鮮である。燕の将軍だった衛満が、衛氏朝鮮を建てるが、漢に滅ぼされ漢四郡が置かれる。高句麗が興るが、これを中国の地方政権とするか、朝鮮の歴史に含めるかについては議論がある(高句麗#歴史論争:高句麗の歴史帰属をめぐる問題)。 遼東公孫氏が朝鮮を支配し帯方郡を置くが、その後、楽浪郡と帯方郡は魏から西晋に引き継がれる。また、朝鮮半島東南部の辰韓は秦の遺民である。 三韓の馬韓、弁韓、辰韓の国内は諸小国が分立していたが、それぞれの諸小国には首長がおり、大きな首長を臣智といい、それに次ぐものを邑借と呼んだが、臣智とは「臣たるもの」の謂であり、中国皇帝に対する臣下のことであり、それを諸小国の首長の立場から表現したものである[5]。
紀元前194年 衛満が、箕子朝鮮を滅ぼし、衛氏朝鮮を建てる[4]。
紀元前128年 前漢が蒼海郡を設置[4]。
紀元前108年 前漢が、衛氏朝鮮を滅ぼし、漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)を置く[4]。
紀元前82年 真番郡・臨屯郡を廃する[4]。
紀元前75年 玄菟郡を西に移し、半島には楽浪郡だけとなる[4]。
紀元前37年 高句麗が成立[4]。
紀元後
12年 王莽が高句麗王?を殺し[4](瑠璃明王#中国史書の記述)、高句麗を下句麗とする。
32年 高句麗が後漢に入貢し、王と称する[4]。
167年 玄菟太守の公孫?が高句麗を討つ[4]。
204年 公孫氏が帯方郡を置く[4]。
238年 魏が公孫氏を滅ぼし、帯方郡を支配[4]。
244年 魏の?丘倹が高句麗の都である丸都城(現在の集安市)を占領[4]。
294年 鮮卑慕容部の大人の慕容?が高句麗を攻撃[4]。
313年 高句麗が楽浪郡を滅ぼし、帯方郡も滅びる[4]。
342年 前燕の慕容?が高句麗を討ち丸都城を占領[4]。
372年 前秦から高句麗に仏教伝来。