中国攻め
「赤松之城水責之図」[注釈 1] 歌川国芳画
中国攻めにおける戦いの一部。
戦争:中国攻め
年月日:天正5年(1577年) - 天正10年(1582年)
場所:播磨・但馬・因幡・伯耆・淡路・備前・備中・美作
結果:本能寺の変により信長の事業としては未完。秀吉との講和をきっかけとして後に毛利氏は豊臣政権に服属した。
交戦勢力
織田信長 毛利輝元
指導者・指揮官
織田信忠[注釈 2]
羽柴秀吉 羽柴秀長
宮部継潤
蜂須賀正勝
尼子勝久 吉川元春
小早川隆景 赤松政範
別所長治
吉川経家
清水宗治
豊臣秀吉の戦闘
中国役
中国攻め(ちゅうごくぜめ)とは、天正5年(1577年)以降、織田信長(織田政権)が主として羽柴秀吉に命じておこなった、毛利輝元の勢力圏である日本の山陰・山陽に対する進攻戦である。中国征伐(ちゅうごくせいばつ)とも称する[注釈 3]。いくさは足かけ6年にもおよび、天正10年6月4日(西暦1582年6月23日)に講和するまで続いたが、その2日前、同月2日(西暦1582年6月21日)に本能寺の変にて信長は横死して、そのまま未完に終わった。
※文中の( )の年は西暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。
目次
1 経過
1.1 信長包囲網の形成と毛利の播磨進攻
1.1.1 中国攻め以前の織田・毛利関係
1.1.2 信長包囲網と織田・毛利の激突
1.1.3 毛利勢の東進
1.2 中国攻め - 戦局の推移
1.2.1 羽柴秀吉の着陣 /天正5年
1.2.2 別所長治・荒木村重の離反 /天正6年
1.2.3 宇喜多・南条の帰順と有岡落城 /天正7年
1.2.4 三木落城と播磨・但馬の平定 /天正8年
1.2.5 鳥取城攻めと淡路平定 /天正9年
1.2.6 備中高松城攻めと中国大返し /天正10年
1.3 毛利氏の服属と中国国分
2 歴史的意義
3 中国方面軍の構成
4 略年表
5 脚注
5.1 注釈
5.2 出典
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
経過
信長包囲網の形成と毛利の播磨進攻
中国攻め以前の織田・毛利関係詳細は「野田城・福島城の戦い」を参照 当時20代前半の若者であった毛利輝元
織田信長と毛利氏は、阿波を本拠とする三好氏に対する牽制の意味もあって、但馬や播磨・備前のあたりを互いの緩衝地帯として、たがいに友好関係を保持してきた[注釈 4]。信長は、上洛以来瀬戸内海東部の制海権の掌握をめざし、それを阻む三好三人衆や石山本願寺とはしばしば戦ってきた(野田城・福島城の戦い)が、他方で瀬戸内海の西部海域を掌握していた毛利氏・小早川氏を敵にまわさないよう気を配ってきたのであった[3]。しかし、一方で信長は天正3年(1575年)、大友氏・島津氏ら九州地方の諸大名を講和させて毛利氏の背後に圧力を加えようと企図し、関白左大臣の近衛前久を薩摩・肥後に下向させている[4]。
天正3年8月、信長は明智光秀・羽柴秀吉を先鋒に、自らも出陣して越前府中(福井県武生市)を攻めて越前一向一揆を壊滅させ、加賀能美郡・江沼郡も制圧して、9月に越前北庄(福井県福井市)に北庄城を築き、後事を柴田勝家に託した[5]。これは、石山本願寺にとっては大きな痛手となった[3]。