中国学
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最初の中国学者マテオ・リッチ(左:1552 - 1610) / 徐光啓(右)ら知識人との交流を通じ中国に関する知識を蓄積した

中国学(ちゅうごくがく、: Sinology)は、中国の事物全般、とりわけ中国の思想文化言語歴史に関する学問の総称であり、とくに中国人以外による中国に関する学術研究をさす。東洋学の一種。
概要

中国学の対象とする領域は当然のことながら極めて広く、その大まかな区別として、前近代中国の古典文化を研究する古典学的な中国学と、同時代の中国を研究する現状分析的な中国学の二部門に分けられることが多い。両部門それぞれの下に史学哲学文学政治学経済学などの分野がある。「中国学」を前者の古典学的中国学に限定すべきであるという見解も可能であり、この場合、後者は中国学の一部門というよりは地域研究(area studies)の一部門として、「(現代)中国研究」「中国事情研究」と称されることになる。しかし両者の間に明確な境界を引くことは実際のところ困難であり、一般的には寛容に「中国学」の名で両者二部門を指している。

英語仏語独語では中国学のことをシノロジー(英:Sinology / 仏・独:Sinologie)という。中世ラテン語のsino-に「学」を表す接尾辞-logie / -logy が付いたものであり、用例としては19世紀初めのフランス辞書に初めて現れた。sino-の語源については諸説あるが、2世紀プトレマイオスの文献に登場するラテン語のシナイ(sinae / 中国の)が変化したものとされる[1]。地域研究の意味でのシノロジーは、通常チャイニーズ・スタディーズ(チャイナ・スタディーズ)(Chinese Studies、China Studies / 中国研究)として知られている。西欧におけるシノロジーの始まりは、後述するように、16世紀イエズス会士による布教戦略としての地域研究に遡る。

一方、中国の近隣に位置する東アジア諸地域における中国学の起源は、そもそも中国と文化圏を同じくすることもあり(漢字文化圏)、比較的早い時期に遡る。日本における中国学は、近代以前においては漢学、近代以降から戦前においては支那学(シナ学)の名称で知られた(支那#事変から戦後の状況)。

なお、中国人自身による中国研究の場合は、国学 / 國學(.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: guoxue)と呼称され、シノロジーは?学/漢學(?音: hanxue)と翻訳されている。

中国学の研究者を呼称する場合、そのまま単純に「中国学者」「シノロジスト」(sinologist)と呼称される。一方で「シノローグ」(sinologue)と呼称されることもある。これはフランス語の接尾辞に由来するものであり[2]、後述する欧米のシノロジー史において、フランスの中国学(フランス・シノロジー)が長らく中心を担ってきた歴史を反映している。
欧米のシノロジー

中国学の源流は、モンゴル帝国時代、一時的にユーラシアの東西を結ぶ交流が盛んになった13世紀 - 14世紀マルコ・ポーロあるいはイブン=バットゥータにまで遡るとする見解もあるが、西欧で体系的なシノロジーが始まったのは16世紀である。
キリスト教布教とシノロジーの成立

16世紀、カトリック宣教師は中国においてキリスト教の布教をすすめていた。明代末期の中国で初めて本格的な布教活動を行ったマテオ・リッチを初めとするイエズス会士たちは、ヨーロッパ科学の紹介を通じて著名な知識人・政治家らと交流して彼らを改宗させ、中国文化・社会に関する知識を蓄積した。そして本国の修道会への報告という形で行った中国事情の紹介が、一般にはシノロジーの成立としてみなされている(このためリッチは最初の中国学者とされている)。初期の調査活動の多くは、キリスト教の布教(ひいては西洋文化)と中国文化をいかに適合していくかという問題に関心が集中していた。西欧における最初の中国学の書は1585年に刊行されたスペイン人修道士メンドーサ(彼自身は訪中経験はない)による『シナ大王国記』であり、この書はヨーロッパの各国語に訳され広く流布した(モンテーニュ随想録』にも引用されている)。

中国からヨーロッパに帰国した宣教師たちは西欧におけるシノロジーの制度化の中心となった。この際とくに重視されたのが布教に不可欠な語学の修得である。1626年にはフランス人修道士トリゴーが『西儒耳目資』を杭州で刊行し漢字のアルファベット転写を試みた。1732年ナポリ王国出身の宣教師マッテオ・リパが、ナポリに欧州大陸最初の中国学の学校(「中国学院」(今日のナポリ東洋大学の核))を創設した。マッテオ・リパは、1711年から1723年にかけて康熙帝の満州宮廷で画家や銅版彫刻師として働いていた。1732年に中国から4人の若い中国人キリスト者を連れてナポリに帰国し、全員を中国語の教師とし、クレメンス12世の裁可を得て宣教師に中国語を教える学校を作り、中国でのキリスト教布教を支えた。

19世紀にはイアキンフ・ビチュリンパルラディ・カファロフといった正教会の宣教師も、布教とともに中国研究を行っていた。パルラディ・カファロフの業績として元朝秘史の発見と出版が挙げられる。
シノワズリと中国像の変容

17世紀から18世紀にかけて中国でのカトリック布教に大きな役割を果たしていたのはフランス出身のイエズス会士であり、中国学の中心は最初に中国に進出したポルトガルスペインイタリアから次第にフランスへと移りつつあった。彼らはルイ14世の後援により中国()に派遣され、清朝宮廷ではその高い学識・技能により皇帝・高官の信任を得て活躍した。当時のフランスではブーヴェ『康煕帝伝』など、彼らの見聞・報告をもとにした中国に関する出版物が多数刊行され、この時期の西欧におけるシノワズリ(中国趣味)の流行の一翼を担った。また海外で活動する修道士の報告書を集成した『イエズス会士書簡集』の編集者である修道士デュ・アルド1735年に4巻よりなる浩瀚な『シナ帝国全誌』を公刊した。当時西欧で流布していた中国のイメージは、実態からかなりかけ離れた開明的な理想王国として描き出すものであった。このことはヨーロッパの絶対王政と強く結びついていたカトリック宣教師たちが、専制君主たる中国皇帝を西欧の絶対君主になぞらえ理想化していた(例えば康煕帝とルイ14世)ことと深く関係している。ケネー / 中国思想に影響を受け重農主義を提唱した

以上のような中国の理想化は、啓蒙思想期にも継承された。この時期、啓蒙思想的なシノローグ(シノロジスト / 中国学者)は、中国の哲学・倫理・法制・美学を西洋に紹介することを開始した。その仕事はしばしば非系統的かつ不完全なものであったにもかかわらず、シノワズリの流行に貢献し、中国文化と西洋文化を比較する一連の論争に刺激を与えた。すなわち彼らはイエズス会士たちとは逆に、自分たちの言論を抑圧する絶対君主を批判するため、中国の文化・制度を理想化したのである。この時期中国に対し好意的な関心を持っていたヨーロッパの知識人のなかには、元曲趙氏孤児』に影響を受け戯曲『シナの孤児』を書いたヴォルテール、有名な『シナ事情』(Novissima Sinica)を書いたライプニッツもおり、彼らは中国における儒教科挙を合理的あるいは反専制的なものとして評価していた。特にフランスではこの時期以降、中国の思想・教育制度の影響を強く受け、教育においては科挙に範をとってバカロレア(大学入学資格試験)が制定され、思想面では農家諸子百家の一学派)の思想がケネー重農主義にインスピレーションを与えた。また、清代における考証学の文献批判の方法はヨーロッパのフィロロジーに多大な影響を与え、19世紀以後フランスでは、考証学を取り入れた新たな文献批判の方法を、他ならぬ古典学的シノロジーへと適用していった。モンテスキュー / 中国社会を「停滞と専制」の社会として批判した


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